柳原正治『帝国日本と不戦条約-外交官が見た国際法の限界と希望』NHKブックス、2022年12月25日、252頁、1400円+税、ISBN978-4-14-091276-8
2024年の「8月ジャーナリズム」として、NHKは安達峰一郎を選んだ。シリーズ「英雄たちの選択」のエピソードのひとつとして取りあげたのだが、おそらく地元山形県以外、視聴者どころか、出演者のひとりである本書の著者を除いて、この番組の司会者、出演者のなかにも知らなかった人がいただろう。
「昭和の選択 戦争なき世界へ ~国際司法の長・安達峰一郎の葛藤~」と題した番組は、つぎのように紹介されている。「満州事変が起きた昭和6年、一枚の風刺画がオランダの新聞に掲載された。「軍国日本」をあらわす鎧武者を、素手で取り押さえようとする一人の侍。侍の名は、安達峰一郎。国際連盟の日本代表で、アジア人で初めて国際司法裁判所の所長になった人物だ。法の下での紛争解決を使命とした安達は、祖国の暴走を止めることを国際社会から期待される。しかし満州事変が法廷で裁かれれば、日本にとって極めて不利な結果になりかねない…」。「司会 磯田道史、浅田春奈」「出演 薮中三十二、柳原正治、小山淑子」「語り 松重豊」「2024年8月12日放送」。
本書はNHKブックスの1冊として出版されたことから、番組制作者の目にとまったのかもしれない。だが、主題にも副題にも「安達峰一郎」の名前はない。帯の表に、「ペンを持つ安達峰一郎」の写真があり、「稀代の外交官・安達峰一郎の軌跡から解く、国家自存と平和構築の狭間の苦闘」「世界の法はなぜ戦争を防げないのか」とある。商業的出版社は、インターネットの検索にかかるよう主題、副題の用語を選定する。「安達峰一郎」は、それから漏れるほど、知られていない存在だった。番組を視聴したり、本書を読んだりした者は、なぜここまで知られていないのか、不思議に思ったことだろう。もっともっと世に知られていいだけの「仕事」をした人で、評価されるべき人だ。NHKが「8月ジャーナリズム」の1番組として放送した英断に拍手を送りたい。もちろん本書の著者にも。
本書の目的は、「はじめに」で、つぎのように説明されている。「満州事変・日華事変・大東亜戦争については、日本の国内政治状況、軍部の策略など、「戦争」に至った政策決定過程に焦点を当てた優れた研究が多く存在する。本書は、そうした過程を分析することではなく、そうした「戦争」と不戦条約との関係を、国際法の観点からいかに説明できるか、また、当時の関係者たちがいかに説明しようと努力していたかを明らかにすることを第一の目的としている」。
「こうした点を説明するに当たって、安達峰一郎(一八六九-一九三四)を手がかりとする」。「本書の副題の「外交官」とは主として安達のことを念頭に置いている」。安達は、「駐メキシコ公使、駐ベルギー公使・大使、駐仏大使などを歴任した職業外交官である。かれはしかし、それにとどまらず、常設国際司法裁判所所長・裁判官を四年間務め、国際法学者といってもよい活動も行った。各時代を優れた先見性と鋭敏な国際的感覚を持って生き抜いた稀有な日本人であり、その安達にそれぞれの時代の「象徴」としての役割をもたせるというのが本書の狙いである」。
本書は、はじめに、序章、全5章、などからなる。「本書の構成」は、序章「満州事変の勃発と安達峰一郎の苦悩」のなかで、「各時代の「象徴」としての安達峰一郎」と題して、つぎのようにまとめられている。「本書では、幕府や明治政府が幕末から明治初期にかけて近代国際法を修得して欧米諸国に並び立つ「一等国」となるためにどのような努力をし、二十世紀初頭には「強大なる国」としての地位を占めるようになったかを説明した後で(第一章[「「強大なる国」を目指して-近代国際法の受容」])、第一次世界大戦後に、新しい国際法秩序の中核となる、集団安全保障体制と国際裁判所が構築され発展していく過程に、日本や日本人がどのようにかかわったかを取り上げる(第二章[「新しい国際法秩序構築に向けて-集団安全保障体制と国際裁判」])。ついで、集団安全保障体制の軸となる戦争違法化について、近世以降のヨーロッパでの戦争観を踏まえたうえで説明し、一九二八年の不戦条約成立までの過程を描く。また、その不戦条約を日本が批准する過程で、天皇主権との関連で陥った、大きな国内混乱にもふれる(第三章[「戦争違法化運動と日本の対応」])。そして、国際紛争を解決するために戦争に訴えることを否定したはずの不戦条約があるにもかかわらず、なぜ日本は満州事変、日華事変、大東亜戦争といった「戦争」(事実上の戦争と国際法上の戦争)に走ってしまったか、逆に言えば、不戦条約はなぜ「戦争」を防げなかったかという点を取り上げる(第四章[「不戦条約はなぜ「戦争」を防げなかったのか」])。最後に、二〇二二(令和四)年二月からのロシアによるウクライナ軍事侵攻という、戦後国際法秩序の最大の危機のなかで、国際社会の平和の実現のためになにをすればよいか、そして日本はどのような役割を果たすべきかについて考えてみたい」(第五章[「世界万国の平和を期して-安達峰一郎の遺したもの」])。
そして、「序章」はつぎのパラグラフで終えている。「世界中を巻き込んだ初の世界大戦後の一九二〇年代、さらに新たな世界戦争への足音が聞こえはじめた三〇年代に、外交官や裁判官としてだけではなく、学者としても国際法のあり方の根源について深い洞察を行った安達の軌跡に照らして、それらの時代を描いていくことには意味があるはずである。それと同時に、「先憂後楽依仁持正 以期万邦之平和(先憂後楽、仁にもとづいて正義を維持し、それによって国際平和を実現する)」(一九三〇年四月)との書を残した安達の真意がどこにあったのかを、多くの人に知ってもらいたい」。
NHKの番組を知って本書を読んだわけではなく、読んでいる最中に放送されることを知って慌てて録画予約をした。このような日本人がいたからこそ、憲法9条の「戦争の放棄」が生まれたのだろう。その水脈のひとつとしても、評価したい。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。