早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2024年10月

梯久美子『戦争ミュージアム-記憶の回路をつなぐ』岩波新書、2024年7月19日、211頁、920円+税、ISBN978-4-00-432024-1

 帯に、「戦争を忘れない-いまと地続きの過去への旅」「14の平和のための博物館へ。土地に身を置き、ものに触れ、人びとの声を聴く。足元の歴史から未来を思い描くために。」とあり、表紙見返しにつぎのように本書の内容がまとめられている。「日本が当事国であった戦争を知る世代が少なくなるなか、忘れてはならない記録と記憶の継承を志す場があり、人がいる。戦争の時代を生きた人間を描くノンフィクションを手がけてきた作家が、各地の平和のための博物館を訪ね、そこで触れた土地の歴史と人びとの語りを伝える。未来への祈りをこめた、いまと地続きの過去への旅」。

 本書は、14の博物館の紹介と2つのコラム、主な参考文献、あとがきからなる。博物館には、2度3度訪れているものもある。「主な参考文献」には、博物館ごとに数点が掲載されている。「あとがき」では、15番目の大和ミュージアムが紹介されている。

 本書のきっかけは、「あとがき」でつぎのように語られている。「戦争にかかわる取材を始めてからおよそ二〇年がたち、直接お会いして話を聴くことのできる体験者が減っていく中、私は「もの」を通して歴史のディティールにふれることができるのではないかと思うようになっていった。時間が積み重なった「もの」たちの美しさに魅かれたこともあり、あらためて「戦争を伝える、平和のための資料館や美術館」=「戦争ミュージアム」に足を運んでみることにした。本書はその記録である」。

 それぞれの施設の学芸員の導きで、著者が「ものたちが隠しもつ歴史」を感じ、知ったものを、つぎのようにまとめている。「本書で訪れたミュージアムにおいても、心に残るものたちとの出会いが多くあった。対馬丸記念館に展示されていた幼い姉妹のランドセル、八重山平和祈念館で見た稲わらのお守り「サン」、舞鶴引揚記念館の「白樺日誌」、東京大空襲・戦災資料センターにあった実物と同じ重さで作られた焼夷弾の模型など、ここにはとても書ききれず、また紙幅が足りずに本書では取りあげられなかったものも多い」。

 「日本軍が毒ガス戦を行った証拠である大久野島毒ガス資料館の「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」や、マラリア有病地への移住が軍命によるものだったことがわかる八重山平和祈念館の「八重山兵団防衛戦闘覚書」など、日本が行った戦争がどのようなものだったのかを検証するために重要な文書にも注目させられた。戦争ミュージアムは、「出会う」「知る」から、さらに一歩進んで深く学ぶことができる場でもあるのだ」。「展示資料の解説文はもちろん、年表ひとつ、地図一枚にもミュージアムの姿勢は現れる。戦争による被害だけではなく、加害の側面からも目をそらさない意志が感じられる展示に出会うことができたのは大きな収穫だった」。

 そして、著者は、つぎのように未来を見据えている。「戦争ミュージアムは、死者と出会うことで過去を知る場所であると私は考えている。過去を知ることは、いま私たちが立っている土台を知ることであり、そこからしか未来を始めることはできない」。

 著者は、「戦争体験者が減っていく中で「もの」のもつ意味が大きくなる」と、「「もの」を通して歴史のディティールにふれることができる」ようになることを期待して、博物館を訪れるようになった。体験者がいなくなったからこそ、現実がみえてくることもある。体験者は、目の前の「現実」に囚われ、「ものたちが隠しもつ歴史」に気づかないことがある。それに気づかせてくれ、「ものたちが資料の域を越えて歴史の証言者となり、いまと過去をつなぐ仲介者となってくれるのは、来歴を調査・研究し、記録を整理し、わかりやすく展示を工夫した各館の学芸員やスタッフの学識と熱意があってこそだ」。箱物だけではなく、それを未来へとつなげる人材が必要であることを、本書は教えてくれる。各館の学芸員やスタッフだけでなく、展示を観る人びとの知識と意識を高めることも必要だ。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

村田麻里子『思想としてのミュージアム-ものと空間のメディア論 増補新装版』人文書院、2024年6月30日、329頁、3800円+税、ISBN978-4-409-24163-9

 県立図書館と併設されている博物館、美術館に、65歳以上無料ということもあって覗いてみることがある。市内から日に数本しかないバスで、往復1000円以上払わなければいけないところもある。公共施設だと思うのだが、「来るな」と言っているようにも思える。だが、市内の便利のいい所にありながら、入館者は無料で入っているわたしだけというときもあるので、広々とした郊外の方がいいということになるのか。いずれにせよ、財政的に「お荷物」になっている。

 本書「プロローグ-ミュージアムを異化するメディア実践」は、つぎの文章ではじまる。「ミュージアムとは社会にとってどのような存在なのだろうか。それは私たちの社会の何を体現し、どのような「意味」を媒介させているのだろうか。本書は、これらの問いに、メディア論の視点から取り組むものである」。「華やかなイメージの裏で、博物館・美術館と呼ばれる施設の窮状が叫ばれて久しい。その原因は、予算・人員の削減や制度的変化といった、目にみえるものにひとまず求められるが、より突き詰めていくと、その背後にあるミュージアムと社会との関係や、コミュニケーションの問題に帰着する。本書は、ミュージアムという物理的で実体的な存在を、社会の様々なメッセージを媒介させているメディア(媒体)として捉えることで浮かび上がる、ミュージアムの思想、コミュニケーション、そしてその社会的な意味について考えることを目指す」。

 以下、「プロローグ」の見出しとして、「ミュージアムというブラックボックス」「ミュージアムの政治性」「ミュージアムはメディアである」「ミュージアムの組織と制度」「ミュージアムを異化するメディア実践」「本書の目的と構成」がならび、最後に「ミュージアムの定義」がある。

 「ミュージアムの定義」では、「ミュージアムとはきわめて多層的な概念である」と述べた後、つぎのように説明している。「ひとくちにミュージアムと言っても、その組織や制度を指すこともあれば、物理的な施設や建物を指すこともある。作品としての建築や展示の内容など、より質的なものを指すこともあれば、これらを組み合わせた意味合いでも使用される。また、本書では、ミュージアムをひとつの「思想」として捉えているため、必ずしも実体的な概念として使用しているとは限らない。したがって、文脈に応じて異なる射程やニュアンスで使用していることを確認したうえで、基本的な定義だけ押さえておこう」。

 そして、つぎのように国際博物館会議(ICOM)による説明をしている。「ミュージアム(museum)とは、「社会とその発展に貢献し、研究・教育・楽しみの目的で人間とその環境に関する物質資料を取得、保存、研究、伝達、展示する公共の非営利常設機関」を指す。もう少し噛み砕いて言えば、モノを蒐集し、そのコレクションを保管し、公開することで社会に貢献する公共施設がミュージアムである。また、日本の法律では、ミュージアムは「博物館」と呼ばれ、設置主体を制限したより限定的な定義になっている。しかし、実際には、博物館法の適用を受けない施設のほうが圧倒的に多く、そのため「博物館」という言葉も、ICOMの「ミュージアム」の定義に近い形で使用される場合がほとんどである」。

 本書は、プロローグ、全5章、エピローグ、あとがき、からなり、「増補新装版のための補論」として、「ミュージアムの苦悩と再生-なぜ脱植民地化するのか」が加えられた。

 第1章「ミュージアムのメディア論-研究の枠組と方法」では、「なぜミュージアムをメディア論の視座から扱う必要があるのか、これまでの博物館学の在り方も整理・検討しながら、研究の視点や方法論を明確にする」。

 第2章「ミュージアム空間の思想」では、「ミュージアムという空間の思想について検討する。人々の文化を蒐集し、展示(表象)するミュージアムというメディアにおいては、必然的に集める/集められる、視る/視られる、語る/語られるといった文化と権力をめぐる問題が様々なレベルで日常的に発動している。視角の快楽を目的とする空間が、社会の中で「生産」されていく様子について、西洋近代という時代から考える」。

 第3章「「ミュージアム」から「博物館」へ」および第4章「メディア・象徴・メッセージ」では、「そうした「ミュージアムの思想」が、果たしてどのように日本に移植され、「博物館」になっていったのかについて、歴史社会学的に考察する。明治期の近代化政策として導入された博物館という制度は、他のアジアの植民地と違い、日本政府自らが率先して導入したという点において、きわめて興味深い事例である。では西洋近代に生まれたミュージアムの思想を、明治期の日本という社会に移植すると、果たしてどのようなことが起きるのだろうか。積極的な「学び」の結果、日本に誕生したミュージアムの空間とはどのようなものなのか、その社会的な意味について考える」。

 そのうえで、第5章「二一世紀におけるミュージアム空間の変容」では、「より現代的なミュージアム状況について考える。過度にグローバル化し、メディア化した現代社会の中で、ミュージアムと、それを受容する私たち(オーディエンス)はどのような関係性の変容を遂げているのか。これまでの考察をいかし、欧米とアジア(日本)を対比させながら、ひとつの見取り図を描いてみる」。

 最後に、「エピローグ-日本のミュージアムの今後と、周縁的であることの可能性」では、「今後もミュージアムについて考え続ける手立てを、これまでに手掛けた実践にも触れながら、検討」する。

 「あとがき」では、まずつぎのように現在の研究状況を紹介し、本書で試みたことをまとめている。「かつてミュージアムに関する研究は、ミュージアムという物理的で実体的な場所の運営や理念を(主に教育学的に)扱うものに限られていた。しかし八〇年代以降、ミュージアムを何かしらの政治的・社会的・文化的な意味や意図の書き込まれたメディア(媒体)として捉える視点から書かれた本が、日本国内でも散見されるようになった。人類学、社会学、思想史等の領域におけるこうしたミュージアム研究は、現在徐々に増えている」。

 「本書が、メディア実践。メディア文化研究、メディア史という三つのアプローチを併用してメディア論という視座からミュージックを考察してきたのは、このような認識から出発しているからである。筆者はこれまで、理論と実践、研究と現場という容易には接続しがたい両者の往復運動を試みることや、双方を接続可能なものにする手立てについて考えてきた。もちろん、本書によってその深い溝を埋められるなどと大それたことを考えているわけではない。しかし、第1章でも述べたように、重要なことはメディア文化研究やメディア史というアプローチが、実践的なものと思考的につながっていることであると考えてきたし、本書はそのささやかな試みとなっていることは自負している」。

 そして、著者は、「増補新装版のための補論」を加えた理由について、つぎのように説明している。補論は、「この十年の動きを踏まえた「現在」について書いたものであるため、本論との間に少しギャップがあるかもしれない。第5章では、グローバリゼーションに伴う西洋のミュージアムの「和解」の必要性や、ミュージアムの公共性の在り方が問われ始めているところまで書いた。そして、ミュージアムが先に進むためには、過去を徹底的に振り返る必要があることが、さらにはっきりしたのがこの十年だったといえる。それは筆者の予想をはるかに超えて前景化し、日本の博物館にとっても決して他人事ではないことがあきらかになった(この点に関しての筆者の十年前の認識もまた甘いものだったと言わざるを得ない)。ミュージアムが新たな公共性を模索する際に重要になるのは、歴史認識と、高度資本主義社会における立ち位置の再検討である。過去と向き合いはじめたミュージアムの動向を追ったこの補論は、これらについて論じる次作への入口だと考えてもらえるとよいかもしれない」。

 たしかに、巻末の「引用・参考文献一覧」「参考引用文献一覧」を見ると、この分野の研究が発達し、多岐にわたっていることがわかる。それだけに、「二一世紀のミュージアムの今後について考える」にあたって、「周縁的なるもの」をみつめ続けることが重要であることが理解できる。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

松浦正孝編著『「戦後日本」とは何だったのか-時期・境界・物語の政治経済史』ミネルヴァ書房、2024年2月28日、669+xix頁、8500円+税、ISBN978-4-623-09716-6

 共同研究の成果としての出版物は、ピンからキリまである。本書はピンである。まず、序章「「戦後日本」を今、問う意味」で、編著者の松浦正孝の趣旨が、充分にメンバーに伝わったことがわかる。つぎに、24章からなる各論考の巻末の注、参考文献から、各執筆者の本気が伝わってくる。似た編著書に「講座」があるが、本書の各論考は「高級概説」を超えている。そして、「あとがき」ではなく「結びにかえて」がある。最後の見出しが「「戦後日本」についての結論」で、「あとがき」を超えたからだろう。最後に、「人名・事項索引」がある。

 本書の概要は、表紙見返しに、つぎのように簡潔にまとめられている。「「戦後日本」は戦前・戦争とどうつながり、どう変わったのか。そしてどのように変遷して「今」に至ったのか。本書では、政治史・外交史・経済史・政治学・憲法学といった分野の第一線で活躍する研究者が結集、これまで見過ごされて来た問題を発見し、徹底した議論と多角的アプローチにより、かつてない立体的な「戦後日本」像を描き出す。「戦後日本」に多方位から光を当て、新たな煌めきと陰影を歴史の中に定位させる壮大な共同研究の成果」。

 本書は、序章、5部全24章、結びにかえて、人名・事項索引からなる。本書の構成は、「本プロジェクトは問題発見型プロジェクトであるから」、「専門分野ごとに固まらないよう、それぞれの扱う領域ごとに五部に分けて配置した」。だが、「これとは別に、本書の副題を「時期・空間・言説」の政治経済史としたように、本プロジェクトは、①「戦後」という「時期(区分)」は扱うトピックや視角から見ていつからいつまでなのか、②「日本」という「空間」はどう意識され、どう作用し、どう論じられたのか、③「戦後」を扱う学説や巷間の俗説や通念などの「言説」の裏にはどのような前提があり、それはどのような政治的主張と結びついているのか、という三点を常に意識して共同研究を進めてきた。いわば、「戦後日本」の時期・空間・言説のそれぞれに輪郭を与えることを通じて「戦後日本」を考え直そうとしてきたと言って良い。本書をそうした問題関心から読むと、章の配列通りに読むのとは少し違った読み方もできる」。

 以下、3節(「2「時期」区分論の重要性」「3「戦後日本」の「空間」を論じる意味」「4「戦後日本」についての言説の再検討」)にわたって、各章の内容を紹介しながら、解説を試みている。

 そして、「結びにかえて」の「「戦後日本」についての結論」では、まずつぎのようにまとめている。「「戦後日本」とは何であったのか。本書では、各執筆者がそのことを強く意識し、それぞれ自分の視角から考えた「戦後日本」の重要な論点について、事例に基づく検討を行った。本書に、結論は、ない。執筆者の意見を統一すべきものであるとも考えていない。「戦後」が遠く終わったと考えている章もあれば、未だ終わっていないとする章もある。様々な視角から見た「戦後」像を交える中で、新たな景色や気づかれてこなかった大事な論点・トピックを見つけ、これまでの「戦後日本」に関するイメージを相対化することが、当初より本書の目指すところであった」。

 「もし結論らしきものを敢えて問われるならば、私たちは「戦後」に生きているが、すでに「戦後社会」、「戦後政治」、「戦後家族」などと同じ世界には住んでいない、ということであろうか。「戦後」についての共通見解はないが、「戦後」が、敗戦後数年にわたる「終戦後」の混乱期を経て、復興をめざして作られ、そして新自由主義などの中で揺らぎ次第に「ポスト戦後」に取って代わられていくというイメージは、多くのメンバーの概ね共有するものであろう」。

 本書は、「戦後」を問い、「敗戦後」を問うているわけではない。編著者は、「敗戦後数年にわたる「終戦後」の混乱期」と述べている。「敗戦後」は数年で終わったのだろうか。「戦後」の前に「敗戦後」について考える必要はないのだろうか。日本の「戦後」は、「敗戦」意識の欠如からはじまったことが、本書からもいえるということなのだろうか。「戦後」と書くとき、なるべく「敗戦後」と書くようにしたら、人びとの意識は変わるのだろうか。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

小林知編著『カンボジアは変わったのか-「体制移行」の長期観察1993~2003』めこん、2024年5月30日、563頁、5000円+税、ISBN978-4-8396-0338-0

 2020年以降の新型コロナウィルス感染拡大で、フィールドワークができなくなった研究者の嘆きの声があちこちから聞こえてきた。とくに地域研究のような分野は、その影響が大きかった。ところが本書は、それを乗り越えた成果である。わたしもそうだったが、現地調査の虜になり、研究費があれば海外に出かけ、現地の感覚を磨いてきた。いっぽうで、これまでの現地調査を振り返りまとめる余裕がなかったが、「コロナ」のお蔭で20年と22年に単行本2冊を出版することができた。本書の編著者も、同じことを考えていたのだろう。タイミングもよかった。「あとがき」で、「2017年の救国党の解党という出来事がなければ、本書は生まれなかった」と述べている。そんなときにウィルス感染拡大がおこり、「可能かつ有意義な研究は何かと模索した末の一手」が、本書につながる民主主義的な政治制度が導入された「体制移行」の「1993年以降のカンボジアにフォーカスしたオンライン研究会であった」。

 本書は、「ある歴史上の出来事を起点として始まる30年を取り上げ、その期間に生じた変化を、複数の方向から、詳しく見直してみる。そしてそこから、2つの意味で、価値ある知見を生み出すことを期待している」。

 「第1は、その30年の変化の内容や方向性が、その社会や文化のもともとの性質を照らしだしているのではないか、という期待である。その方面の検討は、対象とする国や社会、文化についての理解を、よりいっそう深めることになるのではないか」。

 「第2は、その30年の間の変化が、世界の時代的な特徴や、地域を取り巻くより大きなスケールの秩序が示す方向性を映し出しているのではないか、という期待である。検討の内容は、直接的には、対象とした国、社会、文化の1つの事例のものでしかない。しかし、そこに示された特徴や方向性は、他の国や社会で同じ時代を生きた(生きている)人々の生活をも取り巻く、大きなスケールの環境や将来像とも、無縁ではないはずだ」。

 本書は、序論、第1章、4部(第2-13章)、あとがき、などからなる。序論「カンボジアは変わったのか」(小林知)につづく第1章「カンボジアの空間と人口」(小林知)は、「カンボジアの国土と人口の状況を素描する。日本の半分ほどの面積である国土の地理的な特徴をまず整理してから、1990年代から3回実施された人口センサスの報告書に依拠して、最近1700万人を超えたと言われる人々がつくる社会構成を確認する」。

 4部はそれぞれ3章からなり、「各章の終わりには、同じ著者によるコラムを挿入する。コラムは、章の内容を補足するトピックとなっている」。

 第1部「政治と市民社会」は、「カンボジアの政党組織、政治とメディア、市民社会という3つの内容から、この30年間の民主化の動きを検証する」。第2章「民主主義を装う独裁-体制移行後のカンボジア政治展開-」(山田裕史)は、「カンボジア人民党が今日の盤石に見える支配体制を築くまでの歴史過程を振り返る」。第3章「政府と市民が相克するメディア-カンボジアにおける表現の自由をめぐる軌跡-」(新谷春乃)は、「民主主義というシステムの本質的な特徴の1つ」である表現の自由をめぐる軌跡を論じる。第4章「カンボジア市民社会-市民社会組織の誕生、増加の課題-」(米倉雪子)は、「1990年代以降のカンボジアで、国家と家族の間に位置する中間領域の言論や実践活動を担う市民社会組織がいかに発達してきたのかを考察する」。

 第2部「経済と資源」では、「この30年の国内の経済活動の展開を一望してから、農漁業の発展の具体的な様相と、森林資源の減少の要因を分析する」。第5章「復興から経済成長-さらなる発展を目指して-」(初鹿野直美)は、「カンボジアの1990年代以降の経済成長を、貿易、投資、開発援助の推移、国内企業や国外アクターの役割に注目して跡付ける」。第6章「カンボジアの農漁業の30年-自然資源活用・資本集約化による発展とその限界-」(矢倉研二郎)は、今もカンボジアの人口の6割が暮らす農村の「人々の農業・漁業活動の拡大と発展について論じる」。第7章「止められない消失と維持されている影の構造-カンボジアの森林資源をめぐる30年-」(倉島孝行)は、「経済発展の中で消費されてきた近年のカンボジアの森林資源をめぐる状況を、同国の政治構造に重ねて分析する」。

 第3部「社会」では、「家族、外国人、教育の3つを切り口に、30年間の変化を考察する」。第8章「少子高齢化時代を迎えたカンボジアの家族・世帯」(高橋美和)は、「同居単位としての世帯の検討から、カンボジアの家族生活の変化と持続性を検討し、また個人のライフコースの近年の展開を記述的に分析する」。第9章「「外国人」区分と国籍に見られる継続性と変化-ベトナム人を中心に-」(松井生子)は、「1990年代以降のカンボジアの国家が、国内の外国人をいかに管理し、統制する力を発揮してきたのかを検討する」。第10章「学校教育をめぐる援助依存、国内化、多様化-国際支援下の教育復興を振り返る-」(千田沙也加)では、紛争終結後、「社会で活躍する様々な人材の育成が急がれた」カンボジアで「国際支援に依存した教育開発から、自前の政策に基づく人づくりへのシフト」を辿る。

 第4部「文化」では、「1990年代以降のカンボジア文化の変容の動態を、国内の社会の変化だけでなく、外部世界との接合の深化や、ディアスポラからの影響、さらに政府と国際社会が文化財を資源として活用しようとする視線に関連付けて論じる」。第11章「カンボジア仏教の現在地と将来像-サマイの拡張・深化と新たな担い手の登場-」(小林知)は、「カンボジアの人口の9割が信仰する仏教実践の変化を考察する」。第12章「カンボジア古典舞踊ロバム・ボラーンの継承と変容-王立芸術大学とディアスポラ民間舞踊学校の比較から-」(羽谷沙織)は、「舞踊の技の継承に着目してカンボジア文化の近年のダイナミズムを描き出す」。第13章「「アンコール・モデル」の成功と呪縛-体制移行後のカンボジアにおける文化遺産-」(田畑幸嗣)は、「世界遺産化という世界の各地で進行する文化の今日的な動態を、1990年代以降のカンボジアにおいて考察する」。

 本書のタイトルである「カンボジアは変わったのか」という問いにたいして、「あとがき」で、まず「それはオープンな問いであり、様々な意見があり得る。しかし、わたしの個人的な意見を記すことが許されるなら、その問いは、国家/社会/地域のエコロジーとレジリエンスを考えることと同じだと言いたい」と述べ、つぎに変わらないものと変わったものをつぎのようにまとめている。「本書で取り上げた1990年代以降のカンボジアの「体制移行」の事例は、民主化というレジーム・シフトの試みが、国際関与に基づく制度の導入だけでは生じない事実を示すものだと言うことができる。それは、その社会が持つ強靱なレジリエンスにより打ち返されてしまった」。「一方で、カンボジアの自然環境や社会生活は、以前の状況(既存のレジーム)から、新しい段階(新しいレジーム)への移行を遂げつつある。豊かな森林や魚類資源は、もはや国内に存在しない。そのなか農業は、土地や水の賦存量に依拠した発展というレジームから、金融システムや機械化といった従来存在しなかったツールに依拠したレジームへと向かった」。

 そして、最後につぎのように総括している。「「カンボジアは変わったのか」という問いからは、このように、多様な思考がオープンエンドであふれ出す。終わりがないけれど、それを考えることで多くの発見が生まれる大切な問いである。そして、編者が考える次の課題は、その問いを、世界の他の国や地域の事例に展開し、カンボジアのそれと比較することである」。

 「本書は、カンボジアについての最新事情を紹介するものではない」といいながら、それぞれの論考は近年の調査の成果である。そこで光るのは、30年間の変化の最初である。参考文献として、アジア経済研究所のものがあげられている。1970年度から『アジア動向年報』が出版され、基本情報が定期的に得られるようになった。なかには未確認情報が含まれていたようで、翌年以降に矛盾するものが掲載されることもあったが、積み重なるとそれぞれの国・地域の動向が見えてくる。「体制移行」後の変化も着実に追っていったものが、本書の各論考のスタートになっている。本書が生まれたもうひとつの背景として、アジア経済研究所の研究があったのではないか。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

戦後空間研究会編『戦後空間史-都市・建築・人間』筑摩選書、2023年3月15日、310+viii頁、1800円+税、ISBN978-4-480-01769-7

 帯に「戦後は終わらない」と大書され、キーワードとしてあげられている「冷戦 高度経済成長 持家社会 革新自治体 まちづくり バブル経済 オウム真理教 アジア戦後賠償 郊外のスポンジ化 東日本大震災……」とどう結びつくのか、よくわからなかった。読みはじめても、しばらくは、どう話がつながっているのかわからなかったが、不思議なことにだんだんなんとなくわかってきたような気になってきた。それは、たぶん思いつきではなく、研究会でシンポジウムをおこなってきた成果だからだろう。本書の執筆者は、随時シンポジウムの登壇者の発言を参照している。

 シンポジウムについては、「戦後空間の名のもとで-はじめに」の「研究会について」で、つぎのように説明している。「本書に関わる活動は、二〇一七年に一般社団法人・日本建築学会内に設けられた特別研究委員会を母体としている。戦後生まれの集落・都市・建築史研究者、そして学究的な建築設計者を中心とした。研究会内の六名がモデレーターとして、おおよその年代や領域的まとまりによってトピックを決め、登壇者を検討しながらシンポジウムを行った。登壇者は、都市・建築領域に加え、社会運動史、経済史、政治史などの研究者、在米研究者、ジャーナリスト、シンクタンクのリサーチャーかつ翻訳家など多岐にわたった。またコメンテーターに、なるべく当時の立役者に参加いただき貴重な証言をいただいた(その内容はいずれも既にインターネットで公開されている)。本書はシンポジウム記録を単に書籍化したのではなく、シンポジウム終了後にそのモデレーターたちがシンポジウムの成果をもとに、当初の目論見をさらにヴァージョンアップして新たに独自の視点で書き下ろしたものである。各章の執筆において何回も意見を交換し、含むべき要素を検討しあった」。

 「はじめに」では、まず「戦後空間とは何か」を問うて、つぎのように説明している。「まずは「戦後」。私たちは建築や都市の歴史についての研究者であったから、一九四五年の敗戦とともに生じた日本の「戦後」が構築しようとしていた都市・建築のビジョンを再検討するとともに、なお生き残っているその積極的価値、課題を抽出してみたいと考えた。当時は第二次安倍政権下、露骨なまでに、戦後を歴史化させようとする風潮が押し寄せてきていた」。「つぎに「空間」。むしろ歴史をまるで建築を構築するように、つまり「空間」として描くことはできないか。この問いこそが実に魅力的だった」。

 「都市や建築の実際の計画や建設活動のみならず、それらに関する政策・事件・言説・生活体験・文化事象等を柔軟に対象とし、それらを緊密に結びつけた領域のかたちが「戦後空間」なのだ。またそれこそが、時代が形作った実体的な空間をも示唆しうるだろう。本書はその先駆的、発端的な成果としてまとめられた」。

 そして、「はじめに」の最後に、「戦後は歴史化されたか」と問い、つぎのように答えている。「今、原稿の全体を眺めながら、その戦後空間を想起している。その結果として、果たして戦後は過去の一ページとして歴史化されたか、についてその印象を端的に述べておきたい」。「戦後は生きている。戦後は、たとえば農地改革をはじめ、そう簡単に変わるはずのない大きな慣性を日本の国土にすでに刻みつけてしまった。戦後は初期の目的を一部違えつつ、生きつづけている。私たちは、その変質した空間からの深い影響の中で生きている」。

 本書は、はじめに、全6章、終章などからなる。終章「引き裂かれる戦後空間」の「1 充足を超えて」の最後で、「戦後空間のなかの<都市・建築・人間>」の見出しのもと、各章の要約をおこなっている。

 第一章「民衆・伝統・運動体-冷戦と復興、文学と建築、リアリズムとモダニズム」は、「冷戦体制を背景に建築と文学の運動がいかに民衆に接近しようとしたのかを比べ、一九五三年には早くも両者が袂を分かちはじめることを明らかにしている」。

 第二章「技術・政策・産業化-一九六〇年代、住宅の現実と可能性」は、住宅が一九七〇年頃にはその量的充足を達成したにもかかわらず、その後も多量に供給されつづけてきた事実に注意を促す」。

 第三章「革新・市民・広場-人間性の回復を目指した革新都市づくりのレガシー」では、「都市化が進むなかで、他ならぬ都市住民が、戦後的な理念に照らした自己認識=政治意識を生み出したことに注目している」。

 第四章「バブル・震災・オウム真理教-二〇世紀末、流動する戦後空間と建築」は、「生活の実体を置き去りにした経済の自走とイデオロギーの崩壊と戦後久しくなかった大震災がもたらした戦後空間の深い動揺を描き出している」。

 第五章「賠償・援助・振興-戦後アジアにおける日本建築の広がり、およびそれを後押ししたもの」は、「戦後日本のアジア開発への関与に目を向け、戦前の帝国主義との連続性に注意しながら、一国主義的な「戦後空間」の国際的な貌を明らかにしている」。

 第六章「都心・農地・経済-土地にみる戦後空間の果て」は、「開発主義的な戦後日本を「土地」の視点から見直し、土地がそなえるべき公共性を漂白しながら進んだ土地の「商品化」を検証している」。

 そして、終章の最後を、つぎのパラグラフで結んでいる。「国家、都市、村、家族、身体。戦後空間がつくりあげてきたものに取り巻かれながら、それを出発点として、私たちは自らが生きる空間をどう組み替えていけるのだろうか。この問いは今日切実さを増している。戦後空間は終わらない」。

 帯にある「戦後は終わらない」と結論の「戦後空間は終わらない」は、いっしょなのだろうか。空間がある限り終わらないということは、なにを意味するのだろうか。「戦後」だけではない。すでに歴史化した「空間」は、歴史的建造物にあるといえるのか。建築家が考える「都市」「人間」とはなにか。「戦後空間は終わらない」のであれば、「戦前空間」「戦中空間」も終わらないのではないのか。「空間」はいつ終わるのか、永久に終わらないのか。いろいろと考えさせられる問題を、突きつけられた。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

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