新藤久美子『市川房枝と「大東亜戦争」-フェミニストは戦争をどう生きたか』法政大学出版局、2014年2月28日、668頁、9500円+税、ISBN978-4-588-32704-9
市川房枝(1893-1981)は、1974年に「アジアのノーベル賞」とも呼ばれるフィリピンのマグサイサイ賞(社会指導部門)を受賞した。その返礼に、フィリピンの農民青年2人を日本に招くことになり、当時山本まつよ(1923-2021)が主催していた「子ども文庫の会」に出入りしていたわたしは、日本滞在中の世話の手伝いをすることになった。そのときのことを、山本まつよへの追悼文で、つぎのように書いている(『季刊 子どもと本』168号、2022年1月)。
「議員会館での市川先生はせんべいをかじり、自転車で団地をまわっている菅直人の話をした。当時テレビ・コマーシャルで『私作る人、僕食べる人』(一九七五年)が話題になり、市川先生らの呼びかけで「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」が結成されたころであった。市川先生のまわりには、「すてきな」女性たちが集まっていた。将来、市民運動をしたいのか、研究者になりたいのか、と訊かれたりした。市民運動を選んでいたら、菅直人政権の閣僚になっていたかもしれない(笑)。フィリピン人青年が二人来たときの記者会見では、第二院クラブの青島幸男やコロンビア・トップなどと同席した。日本からも二人、フィリピンに派遣することになったが、女性限定だった」。
本書序章「フェミニズムと戦争-市川房枝の「戦争協力」をどう捉えるか」のなかに、「毀誉褒貶の相半ばで」という見出しがあり、つぎのようにまとめられている。「その生涯を通して、また没後も、毀誉褒貶の激しい評価を受けてきた政治家でもあった。たしかに、女性の地位向上と政治浄化という理想に生涯をかけた不撓不屈の政治家としての高い市川評価がある。だが同時に、そうした理想主義的政治家という高い評価の背後で、眼前の喫緊の政治目的を達成するために、より高次の平和と民主主義の理念を見失った機を見るに敏な現実主義的政治家という負の評価がつきまとってきた」。
本書の目的は、同じく「序章」でつぎのようにまとめられている。「本書で私は、そうした、二つの視座からいまいちど戦時期市川の活動と言説を実証的に検証し、そのフェミニストとしての戦争協力の意味を問い直してみたいと思う。その検証を通して、第一に、戦争状況で平和を希求するイデオロギーとしてフェミニズムがどう機能しうるのか、どこに限界があるのか、フェミニズムと戦争の関係を明らかにしようと思う。そして第二に、戦後市川の高く評価されている活動の淵源が戦前期にあるのか否か、二つの時期の断絶と連続の側面を浮き彫りにし、歴史を「つなげる」作業を試みたいと思う」。
本書は、序章、2部全12章、終章などからなる。第Ⅰ部「市川房枝とその時代-戦争と日本型ジェンダー・ポリティックスの創生」は5章からなり、「一九三一年九月の柳条湖事件をきっかけに急激に反動化する社会で、市川がどのように平時の婦選運動を準戦時期の軍ファシズムに対応させていったかに焦点が当てられる。そして、その全体主義との葛藤のなかで市川が牽引した「婦選」運動が、どのように日本の女性たちに固有な政治とのかかわり方、つまりジェンダー・ポリティックスを編み出していったかを検証したいと思う」。
第Ⅱ部「婦選運動家市川房枝の戦争協力-盧溝橋事件・日中全面戦争から敗戦まで」は7章からなり、そのテーマは「盧溝橋事件から敗戦に至る戦時期の市川の国策委員としての活動の全容を明らかにし、さらに日米開戦容認、本土決戦是認へ向かう市川の転向の契機と軌跡を確認することにある。そこからまず、フェミニズムが戦時下どのように機能するのかを検証する。それは準戦時期、戦時期を通して市川のフェミニズム観が、どの時点まで反戦の活動として表現されていたのか、そして転向していく過程でそのファミニズム観はどのように変化したのかを明らかにするためである。いったい戦争最終盤に市川が帰着したフェミニズムは、どのような相貌を見せているのだろうか」。
そして、終章「歴史をつなげる」で、「準戦時期市川らの開発した婦選活動の新しい戦略が、戦時期の国策委員としての活動と、さらには戦後の政治家としての活動と、どのような連続・不連続線上にあるのかを確認したいと思う。これらの検証を通して、近代日本史上最も激動の時代に婦選運動を率いて生き抜いた市川が、戦争を知らない世代に残したメッセージは何か、その持つ意味は何かを読み解きたい」。
著者は、「あとがき」で本書をつぎのように総括している。「私は、「告発史観」の視座からではなく、同時代の社会状況を射程に入れ、フェミニスト市川の戦時期活動の意味について、その言説と活動を軸に再検証した。そして軍ファシズムの跋扈する反動的な戦時社会で、婦選の女性たちが編み出した、特殊日本的なジェンダー・ポリティックスが、国際危機のなかで示した可能性と限界を確認した。はたして戦前日本のフェミニズムに、戦争終息に向けての国際的連帯の試みはなかったのだろうか」。
つづけて、その検証の意図は2つあったと述べている。「第一に、フェミニズムが、戦時下にあって平和のイデオロギーとして機能するのかを明らかにすることにある。そして、そこから浮かび上がってきたことは、時代をはるかに先駆けた男女平等の政治的権利を要求するフェミニスト市川もまた、「天皇制」国家の「国民」の一人として、時代のナショナリズムを共有していたという事実にほかならない。じっさい、フェミニズムとナショナリズムは、戦時期市川の「婦選」活動を支えた相互にせめぎあう二つの価値であった。十五年戦争最終段階の国際的危機の高まりのなかで、市川のフェミニズムは、国家の生き残りを第一とするナショナリズムに飲み込まれていった」。
「第二の意図は、平時に市川の求めた婦選の目的と戦略が、戦時下の国策委員としての活動にどうつながり、平時、戦時期の経験が戦後の活動に、どう生かされているのかを明らかにすることにある」。「市川は、戦前、戦中、戦後と近代日本史上、体制の一八〇度転換した昭和の三世代を生き抜いた、社会運動家・政治家である。はたしてクリーン・ポリティックスの旗手としての戦後市川の軌跡は、戦前、戦時の「婦選」活動の連続線上にあるのか、あるいは不連続線上にあるのか。戦時期における市川の活動を「告発」の視座からのみ見ている限り、その展望は明らかにできない」。
そして、つぎのパラグラフで終えている。「民主主義体制にあって、世論の意思がかくも簡単に踏みにじられ、国民の意思から遊離した為政者の考える「この国のかたち」が着々とつくりあげられていく。戦後六八年間の平和を保障してくれた平和憲法自体、改憲の瀬戸際にある。生前の市川が繰り返し述べていた「二度と再び戦争の道を歩ませない」ために、彼女が歩んだ十五年戦争の軌跡を、その陥った陥穽とともに学び直したいと思う」。
巻末の「人名索引」は、あたかも近代日本フェミニスト事典のエントリーのようだ。ひとりひとりに市川房枝との関係がある。掲載ページの多い順に並べても、なにかわかってくるかもしれない。また、市川が選択した「第三の道」である「婦選の目的でもある「婦人と子ども全体の」幸福を増進するため、政府に「ある程度協力して」戦時期の婦選活動を継続させる」とは違う、第一の道(「非戦の立場から政府が遂行する中国との全面戦争に反対し、社会的活動を一切やめ隠棲してしまう」)、第二の道(「非戦の立場から政府の戦争遂行政策に抗議し牢獄に行く」)を選択した人たちとの関係も明らかになるかもしれない。著者が、愚直に「市川の活動と言説を実証的に検証」してくれたお蔭で、つぎつぎとテーマが浮かびあがってくるはずだ。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『1912年のシンガポールの日本人社会-『南洋新報』4-12月から-』(研究資料シリーズ11)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2025年2月(予定)、159頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるようになる)
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
早瀬晋三「戦前期日比混血者の「国籍」について」『アジア太平洋討究』第49号(2024年10月)pp.1-17. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/49/0/49_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「『南洋日日新聞』(シンガポール、1914-41年)を読むための覚書」『アジア太平洋討究』第48号(2024年3月)pp.1-66. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/48/0/48_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「消える近代日本・東南アジア関係史研究-アジア史のなかの東南アジアを考える」『史學雜誌』第133編第7号(2024年7月)pp. 43-46.
早瀬晋三[書評]:太田出・川島真・森口(土屋)由香・奈良岡聰智編著『領海・漁業・外交-19~20世紀の海洋への新視点』(晃洋書房、2023年)『社会経済史研究』Vol.90, No.2(2024年8月)pp.160-64.