牧野百恵『ジェンダー格差-実証経済学は何を語るか』中公新書、2023年8月25日、230頁、900円+税、ISBN978-4-12-102768-9
本書の執筆動機を、著者はつぎのように述べている。「ジェンダー平等を声高に叫ぶだけではそれは実現しないし、政策議論も深まらないのではないかという問題意識にあります。筆者は経済学が専門なので、エビデンスを示したジェンダーにまつわる研究を取り上げることで、ジェンダー平等に関する議論に深みをもたらすことができればと思っています」。
著者は、「ジェンダーの専門家」ではなく、「ジェンダーにまつわる問題」を「実証経済学による最新の知見」によって考察し、「女性が活躍し、かつ幸せを感じることができる社会を実現する」ための一助になることを願っている。
副題にもある「実証経済学」とはなにか。著者は、「はじめに」で、その有効性をつぎのように説明している。「実証経済学でいうエビデンスとは、統計学を使って因果関係を厳密に示した研究成果を指します」。「この本では、因果関係のエビデンスを示したジェンダー格差についての研究を、端的に紹介していきます」。「この本でも、女性の労働参加や社会進出を中心にみていきます」。「実証経済学が示すエビデンスは、とても強いメッセージになるはずです」。
さらに、中絶を例に具体的に説明している。「中絶をめぐっては、女性のプライバシー権、胎児の生存権、宗教的価値観などさまざまな争点が絡み合っており、主義や信条、倫理規範=「○○するべき」をもとにすると議論が収拾しません」。「ところが、実証経済学では主義や信条はさておき、中絶が合法化されることの効果を、エビデンスとして明快に示すことができます」。「実証された効果には、中絶が合法化されたことで、とりわけ黒人の貧困層の女性が恩恵を受けたこと、中絶が違法なら生まれていたはずの子どもが生まれなかったことで、二〇年後の犯罪率が明らかに低下したことなど、少々ショッキングなものも含まれます」。
本書は、はじめに、序章、全8章、終章、あとがき、などからなる。本書の全体像については、表紙折り返しに、つぎのようにまとめられている。「歴史・文化・社会的に形成される男女の差異=ジェンダー。その差別には近年批判が強く集まる。本書は、実証経済学の成果から就業、教育、歴史、結婚、出産など様々な事柄を取り上げ、格差による影響、解消後の可能性について、国際的視点から描く。議員の女性枠導入=クォータ制が、質の低下より無能な男性議員排除に繋がる、女性への規範が弱い国ほど高学歴女性が出産するなどエビデンスを提示。旧来の慣習や制度を問う」。
序章「ジェンダー格差の実証とは」では、「まずジェンダー格差を測る指標を詳しく紹介します。世界的にみても格差の大きい日本の人びとは、ジェンダー格差についてどのように思っている」のか、「そのうえで実証経済学では、果たしてどのようにジェンダー格差を研究対象としてきたのか、ジェンダー格差に関するエビデンスとは何か、エビデンスを実証する方法について、この本で紹介する研究が使ってきた手法」についてみる。
第1章「経済発展と女性の労働参加」では、「経済の発展と女性の労働参加との関係についての研究を紹介していきます。なお、少子化との関係については、女性の結婚、性や出産に関する権利、育児と労働参加との関連で、第6章[高学歴女性ほど結婚し出産するか]、第7章[性・出産を決める権利をもつ意味]、第8章[母親の育児負担-制度はトップランナーの日本]でより詳しく扱います」。
第2章「女性の労働参加は何をもたらすか」では、「さまざまなエンパワーメントの指標と、女性の労働参加との関係、因果関係のエビデンスを紹介していきます」。第3章「歴史に根づいた格差-風土という地域差」では、「社会が形成されるにつれて、どのようにジェンダー格差が生まれてきたのか、データを使って実証した研究を紹介」する。第4章「助長する「思い込み」-典型的な女性像」では、「とくにステレオタイプのもたらす影響についての実証研究を紹介」する。第5章「女性を家庭に縛る規範とは」では、「女性が外で働くべきでないという規範が、女性の労働参加にどのような影響を与えてきたのか、各国の研究を紹介」する。
終章「なぜ男女の所得格差が続くのか」では、「経済学で伝統的に扱われてきた男女の賃金もしくは所得格差について、すでに本書で紹介した論文にも触れつつ、締めくく」り、「ミクロ経済学実証研究のなかで、最新の研究によってわかってきたことを中心に紹介」、「とりわけ、ランダム化比較試験(RCT)や自然実験を用いて、因果関係のエビデンスを示すことにこだわったものを中心に紹介して」いる。
そして、つぎのように結論している。「たしかに学歴の差がなくなり、差別が少なくとも表向きには禁止された先進国については、それら伝統的な要因のもたらす影響は小さくなっているようにみえます。代わりに、社会規範のもたらす影響がますます無視できなくなっていると言えるでしょう」。「男女が就業する職種や産業の違いが、男女の所得格差の大きな要因であることは研究者の間で異論がないようです。では、なぜ典型的に男性が就くとされている職業、たとえばエンジニアや金融業に女性が少ないのか。女性がそもそもこのような職業に就くための専攻をしないのはなぜか。ここでもステレオタイプや社会規範の影響が大きいのです」。
「また、女性のほうが柔軟な働き方や短い通勤時間を望むことが男女の所得格差につながっているとしても、その背景には家事や育児との両立があるでしょう。仮に男性と女性が、家事や育児の負担を本当に折半するとしたら、それでも女性のほうが柔軟な働き方を望むのでしょうか」。
「日本では、男女を問わずキャリアの中断は所得格差に結びつく傾向にあります。では、キャリアを中断しなければならない理由は何でしょうか」。
「柔軟な働き方にしろ、キャリアの中断にしろ、家事や育児を女性が負担すべきという社会規範が大きく働いているのではないでしょうか。この社会規範に真面目に目を向けることが、日本のジェンダー格差解消の鍵となるかもしれません」。
さらに、「あとがき」で、少子化について具体的につぎのように述べている。「少子化に歯止めをかけるには、さまざまな政策が考えられます。出産一時金の拡充、待機児童の解消、保育士の労働環境・賃金の改善、幼保や教育の無償化の拡充、婚活のサポート、今回の改正にみられるような育児休業制度の充実などです。これらのわかりやすい制度とは別に、この本は少子化の元凶かもしれない視点についてエビデンスを提示しました」。
「それは「女性は家、男性は外」といったジェンダー規範です。先進国に限れば、少子化に悩む国ほど女性の労働参加が進んでいないことはデータから明らかです。少子化に歯止めをかけるには、このようなジェンダー規範を真剣に考える必要があるでしょう」。
著者は、「毎週、有志の経済学者たちと英文経済学のトップジャーナルに掲載された論文の勉強会」に参加し、「そのなかで読んだ論文を、アジ研[日本貿易振興機構アジア経済研究所]のウェブサイト、『IDEスクエア』の「途上国研究の最先端」というコラムで一般向けに紹介して」きた。「本書では、そこで紹介した論文を含め、もっと多くの読者にこれらの知見を知ってもらうために、さらに平易な表現を心がけ」た。
近年、英文経済学のトップジャーナルへの寄稿をめざす日本人研究者が増えてきている。その結果、日本語の学会誌や大学の紀要への寄稿が減って、発行に苦慮しているところがある。だが、英語と日本語の論文の読者は明らかに違い、内容も自ずから違ってくる。英語ではマクロな理論研究が多くなり、日本語ではミクロな個別研究が多くなる。両方が絡みあって、マクロ・ミクロ双方に貢献するダイナミズムな研究に繋がる。本書の著者も、本書を出版したことで、勉強会で読む「トップジャーナルに掲載された論文」の理解力が高まり、優れた英文論文を寄稿できるようになることだろう。英語と日本語では発想が違い、論理的展開もまったく違ったものになる。柔軟な論文を書くためにも、また具体的事例を身近な社会から得るためにも、世界的に通じる英語論文と身近な事例から解決策を探る日本語論文の両方を書く必要がある。日本語学術雑誌の発展は、英文トップジャーナルへの寄稿に繋がると思うのだが、どうも日本語論文を「格下」とみて、英語論文を優先する者がいるようだ。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『1912年のシンガポールの日本人社会-『南洋新報』4-12月から-』(研究資料シリーズ11)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2025年2月、159頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるようになる)
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
早瀬晋三「戦前期日比混血者の「国籍」について」『アジア太平洋討究』第49号(2024年10月)pp.1-17. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/49/0/49_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「『南洋日日新聞』(シンガポール、1914-41年)を読むための覚書」『アジア太平洋討究』第48号(2024年3月)pp.1-66. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/48/0/48_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「消える近代日本・東南アジア関係史研究-アジア史のなかの東南アジアを考える」『史學雜誌』第133編第7号(2024年7月)pp. 43-46.
早瀬晋三[書評]:太田出・川島真・森口(土屋)由香・奈良岡聰智編著『領海・漁業・外交-19~20世紀の海洋への新視点』(晃洋書房、2023年)『社会経済史研究』Vol.90, No.2(2024年8月)pp.160-64.