吉見義明『日本軍慰安婦』岩波新書、2025年7月18日、275+15頁、1120円+税、ISBN978-4-00-432072-2
本書を読んで、むなしくなった。
著者は、30年前の1995年に『従軍慰安婦』を刊行した。「その内容に間違いはないが、その後に明らかになった証言や資料や研究は数多い。そこで本書では、その後の多くの成果に学びながら、この問題について、新しく書き下ろしてみたい」と思った。
だが、研究は進展したはずなのに、事態は悪化している。1992年に宮沢喜一首相が韓国を訪問したときに、盧泰愚大統領に謝罪し、翌93年に河野洋平官房長官談話で「軍慰安所の設置・管理、軍慰安婦の移送に軍が直接・間接に関与したと認めた」。各国の被害者が名乗り出、世界人権会議で議論され、事態は好転していくようにみえた。
それが暗転したのは、2006年の安倍晋三内閣の成立だった。07年に「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」という閣議決定をおこない、「事実上の否定と証拠を無視する姿勢を明確にした」。さらに、2012年に第二次安倍内閣が成立し、アメリカの圧力の下でおこなわれた15年の「日韓合意」では「日本政府は軍慰安婦問題の根本的解決から完全に背をむけ、歴史から隠蔽・抹殺しようとしはじめた」。
そのことを著者は、つぎのように説明している。日韓両国政府は、「軍慰安婦問題が「最終的不可逆的に解決されることを確認」し、「今後、国連等国際社会でこの問題について非難・批判することは控える」としたことである。これは、河野談話が約束した教育等の再発防止措置の実行を事実上否定しただけでなく、あらゆる再発防止措置を否定した上で、軍慰安婦問題の本質を隠蔽することになった」。「たとえば、この合意では、日本政府は「平和の少女像」の撤去を要求し、韓国政府は撤去の努力義務を負うこととなった。少女像とは、軍慰安婦とされた朝鮮人少女の像で、再発防止のために、それも日本国内ではなく国外に立てられたのだが、それさえも撤去せよというのである」。
さらに、2016年に安倍首相は根拠を示すことなく「性奴隷という事実はない」と述べ、安倍内閣を引き継いだ菅義偉内閣は2021年に「軍慰安婦問題の教科書記述では「従軍慰安婦」という用語の使用は適切ではないとして、「慰安婦」という用語を訂正させた。日本政府は、ついに軍との関係まで否定するようになったのである」。
そして、「おわりに」の最後の見出し「継続する課題」で、冒頭つぎのようにまとめている。「日本軍慰安婦問題の被害者は高齢となり、その多くは鬼籍に入られた。被害国で、被害回復を求める政府はなくなった。しかし、被害そのものがなくなったわけではない。日本政府はこの問題で世界基準にそうような誠実な対応をしなかったという重い事実は継続している」。「なかでも、この問題のより一層の事実の解明と責任の所在の明確化と再発防止をどう実現するかという課題は継続している。それは、日本の戦争責任をどう克服するか、武力紛争時での女性に対する性暴力をどう防ぐのか、日本の植民地支配責任をどう考え、克服するのか、女性に対する性暴力をなくすために今あるジェンダー差別をどう認識を[し]、どのように克服していくのか、という課題につながっている」。
この「おわりに」は、つぎのパラグラフで終わっている。「このような、資料の収集・公開、人的交流、記憶の継承、博物館での展示などの継続を通じて、軍慰安婦問題を長く記憶にとどめ、再発防止につとめることが求められているのではないだろうか」。それがおこなわれているのに、政治レベルで「悪化」していることに、わたしはむなしくなったのである。政治の「右傾化」では済まされない問題になっている。「このような歴史的事実の歪曲は、安倍元首相や政府関係者の意図に反し、日本に対する世界の信頼を失わせ、問題解決を長引かせ、負債を次の世代にまで背負わせることになるであろう」。「右」の人がよくいう「国益」を損ねているのである。
なお、著者が旧著の『従軍慰安婦』から『日本軍慰安婦』にタイトルを変えたことについて、つぎのように説明している。「本書では、その本質をもっともよく示す用語として、「日本軍慰安婦」あるいは「軍慰安婦」を用いたい。もっとも気になるのは「慰安」という言葉だ。その本来の意味と、実際に強制された行為のおぞましさとの落差は許しがたいという声は多い。たとえば、オランダ対日道義請求財団のユングスラガー法律顧問は、オランダ人女性たちがさせられたことは「慰安comfort」という語がもつ、愛・同情・温かさ・憐れみとは全くかけ離れたものだとのべている」。「被害女性が名乗り出てからは、「従軍慰安婦」ではなく、「日本軍慰安婦」という用語がもちいられるようになった。先述したように、日本軍が「慰安所」「慰安婦」という用語を選んだのは、軍という国家機関が性的施設を提供するという、公然とは語れないような問題を隠すためだった。このような歴史的経緯と問題を示すために、この用語はカギカッコ付きで用いるべきだろう」。
政府間の問題はなくなっても、人びとのあいだで歴史的記憶が長く語り継がれていることは、多くの歴史物語が証明している。国益ではすまされない、その時代を生きた人にとっての大きな過ちである。民衆の歴史をあまくみてはいけない。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
『アジア太平洋討究』第52号(早瀬晋三教授退職記念号)、2026年1月、672頁(発行予定、早稲田大学リポジトリからダウンロードできるようになる)
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『戦前期東南アジア海域における日本人漁業活動の基礎資料』(研究資料シリーズ12)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2026年2月(発行予定、早稲田大学リポジトリからダウンロードできるようになる)
早瀬晋三『1912年のシンガポールの日本人社会-『南洋新報』4-12月から-』(研究資料シリーズ11)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2025年2月、159頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2004934)
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるfile:///C:/Users/shaya/Downloads/KenkyuShiryoSeries_10_02.pdf)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/78131)電子版の発行は中止。
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
早瀬晋三最終セメスター「単著単行本を振り返る」
早稲田大学早稲田キャンパス19号館608号室、17:00~
10月14日『「ベンゲット移民」の虚像と実像-近代日本・東南アジア関係史の一考察』(同文舘,1989年11月)292頁。
10月21日『海域イスラーム社会の歴史:ミンダナオ・エスノヒストリー』(岩波書店,2003年8月)265頁。
10月28日『歴史研究と地域研究のはざまで-フィリピン史で論文を書くとき』(法政大学出版局,2004年12月)188頁。
11月4日『戦争の記憶を歩く-東南アジアのいま』(岩波書店、2007年3月)216頁。
11月11日『歴史空間としての海域を歩く』(法政大学出版局、2008年10月)268頁。
11月18日『未来と対話する歴史』(法政大学出版局、2008年10月)290頁。
11月25日『未完のフィリピン革命と植民地化』(山川出版社、2009年2月)90頁。
12月9日『マンダラ国家から国民国家へ-東南アジア史のなかの第一次世界大戦』(人文書院、2012年6月)170頁。
12月16日『フィリピン近現代史のなかの日本人-植民地社会の形成と移民・商品』(東京大学出版会、2012年10月)282+26頁。
1月13日『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』(岩波現代全書、2018年3月)224+22頁。
1月20日『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES・SEA GAMES 1959-2019』(めこん、2020年7月)383頁。
1月27日『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』(人文書院、2022年1月)412頁。