ジェームズ・R・ブランドン著、小田中章浩・岩井眞實訳『歌舞伎の戦争-十五年戦争とその影-』名古屋大学出版会、2025年10月20日、344+29頁、6300円+税、ISBN978-4-8158-1212-6
本書の結論は、「序章」の最後にある。「歌舞伎界が心底から日本の戦争努力に参加したこと、とりわけ戦時の日本についての新作歌舞伎を絶え間なく作り出したことにより、一九三〇年代および四〇年代初期の歌舞伎が、埃をかぶった古典劇とはまったく異なるものだったことである」。
「十五年に及んだ日本の「聖戦」は、この国の文化史において決定的に重要な時期であった」。にもかかわらず、「戦争中の歌舞伎に関する専門的な研究は、日本国内においても国外においても、これまでおこなわれてこなかった。日本人の手による歌舞伎の歴史の大半では、戦時中は単に消し去られている」。「全般的に見て、十五年戦争において歌舞伎が果たした役割は、これまで〔本書執筆まで〕の六〇年間ほぼ完全に無視されてきた」。
「序章」は、つぎの言葉ではじまっている。「本書はもともと私の計画になかった」。だが、「第二次世界大戦後のアメリカ占領期の歌舞伎の検閲について調べてきたとき」、著者は「厄介な問題に直面した」。著者の疑問は、「日本の占領が始まった一九四五年九月の時点で、歌舞伎俳優によって演じられていた芝居がすべて伝統的なものであったとしたら、歌舞伎の演目の固定化はいつから始まったのだろう」ということだったが、「それまでに私が読んだもののなかで、戦時下の歌舞伎に触れたものはほぼ皆無だった」。
その疑問への解答は、最終章である第12章「古典歌舞伎の創造(一九四五~四七年)」の「まとめ」の前にある。「一定の範囲において、歌舞伎は日本の戦時内閣による反米プロパガンダを加速させた。戦争が終わっても、歌舞伎はアメリカのイデオロギー上の目標に反対するというお気に入りの役を続けた。アメリカの演劇検閲官が用いた主な強制手段、すなわち一部の望ましからぬ芝居の上演禁止は、確かに占領初期の時代には有効であった。しかし松竹の担当者は、アメリカの上演禁止の基盤にあるイデオロギーを決して受け入れず、上演可能な芝居の伝統的な演目に常に戻ろうとした。アメリカの演劇検閲官は、一九四七年十一月に、松竹に完全に降伏したということができる。すわなちフォービアン・パワーズがあらゆる歌舞伎劇のなかでもきわめて「封建的」なことで知られる『忠臣蔵』の東京劇場での上演について、検閲を解除したときである。アメリカのプロパガンダの敗北は一九四九年半ばに完全なものとなる。検閲は占領軍の目的にとって無用だとマッカーサー将軍が認めたのである。こうして一九四九年十一月一日、彼はCCD[民間検閲支隊]を完全に廃止した。日本が第二次大戦に負けてから四年後、歌舞伎はアメリカに「勝った」。大谷社長とその支持者は、占領軍のイデオロギーを機略で切り抜け、その裏をかくことで、もちこたえた。今や松竹は、永遠に「古典」歌舞伎を上演する自由を手に入れたのである」。
「本書の特徴と意義」を、「訳者解題」で、つぎのようにまとめている。「ブランドンのすぐれているところは、単に歌舞伎の戦争劇を時系列的に扱うのではなく、それを当時の日本をめぐる経済・社会・思想的な幅広い文脈のなかで論じていることである。その視点はときに世界史的に拡大され、日本の演劇文化をファシズムやナチズムのそれと対比させる。また歌舞伎とのかかわりにおいて新派、新国劇、新劇、能、人形浄瑠璃について触れることにより、本書は一定の限界はあるとはいえ、日本の戦時演劇の通史となっている。あるいは著者は微視的な視点もとり、演劇人の日記や回想、さらに新聞広告からも印象的な話題を拾い上げていく。それらを織りまぜて一つの歴史=物語を作り上げていくブランドンの語り口は見事である」。
そして、訳者代表の小田中章浩は、「翻訳について」、つぎのように述べている。「アメリカの人文研究の王道ともいうべきこの種の総合的研究では、膨大な資料を扱うために、細かな事実の誤認や、過度の単純化という弊害も生まれる」。「開き直るわけではないが、この種の誤読(あるいは解釈の相違)は異文化研究においてあるていどは避けられない(そうでなければ、そもそも異文化を研究する意味もないわけである)」。
翻訳をしたことのない者にはわからないだろうが、英語学術書・論文と日本語学術書・論文は、論理的にも構成においても、まったく違うもので、そのまま直訳しても執筆者の意図は充分に伝わらない。原資料の扱いについても、外国語の場合、論旨に従って意訳する必要が出てくる。わたしは、日本語の論文を英訳しても英語論文にならず、英語で書かれた日本語論文だといっている。しかし、それが無駄だとは思っていない。日本語の資料を日本語の発想で使うことを英語読者に伝えることができるからである。いずれにせよ、要は以上のような状況を踏まえて、読者がどこまで読解力をもっているかである。その意味で、「訳者解題」が大切である。本書は、それを充分に理解している訳者によっているので、安心して読めた。「開き直る」必要はない。
※ 大阪府豊中市(千里中央)に転居しました
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
『アジア太平洋討究』第52号(早瀬晋三教授退職記念号)、2026年1月、462頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://www.jstage.jst.go.jp/browse/wiapstokyu/52/0/_contents/-char/ja)
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『戦前期東南アジア海域における日本人漁業活動の基礎資料』(研究資料シリーズ12)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2026年2月、179頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2007415)
早瀬晋三『1912年のシンガポールの日本人社会-『南洋新報』4-12月から-』(研究資料シリーズ11)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2025年2月、159頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2004934)
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるfile:///C:/Users/shaya/Downloads/KenkyuShiryoSeries_10_02.pdf)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/78131)電子版の発行は中止。
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。