重松伸司『海のアルメニア商人-アジア離散交易の歴史』集英社新書、2023年4月22日、203頁、1050円+税、ISBN978-4-08-721260-0
近世・近代交易史の原資料を読んでいると、気になる程度にアルメニア人が出てくる。まとまって出てこないので、研究対象とするほどではないが、無視することもできない。いつか研究したいとも思うが、各地に散らばっているので、現地の言語にしろヨーロッパの言語にしろ、ひとつやふたつの言語で文献を読むことはできないし、フィールドワークもたいへんだ。そんな状況を知っている者にとって、本書は驚愕すべきものだ。
本書の内容については、表紙見返しにつぎのようにまとめられている。「有史以来、アルメニアは次々と勃興する帝国のはざまで侵略を受け、「ディアスポラ(離散)」という運命に晒されてきた。離散したアルメニア人たちは、近世のユーラシア大陸では「陸の巡回商人」として活躍していたが、近代になると「海の商人」に変貌し、インド・東南アジアを経て、香港や上海、日本にまで到来していたことが調査により明らかになった。彼らは各地でどのようにコミュニティを築き、いかに生き抜いてきたのか-。インド、マレーシアなどでの資料収集、墓碑調査、インタヴューをもとに、アルメニア商人たちの姿をアジア交易の視点から鮮やかに描き出す」。
こんなマニアックなテーマでいったいなにを伝えることができるのだろうか、と思って帯の裏を見ると、「おわりに」の「最後に」の後が、つぎのように引用してあった。「アルメニア商人の活動から見えてくることがある。二一世紀における世界では「逃走という生き方」もあるのではないのかということである。それは離散アルメニア商人の現地調査を続ける中で次第に醸成されてきた筆者の個人的意識である。「逃走」とは「逃亡」ではなく、「敗北」でもない。離散しつつも新たな「アイデンティティー」が兆し、それを世界のどこかで醸成する一つの方策であり、二一世紀においては積極的な生き方ではないのかということだ」。テレビドラマの「逃げるは恥だが役に立つ」ということか。
本書は、はじめに、全8章、おわりに、などからなる。「本書は、筆者がアジア各地で出会った人びとへのインタヴューと、さまざまな歴史遺跡、関係史料にもとづく現場確認、「フィールドワーク」から得られた成果の一端である」。「二〇〇〇年頃から、筆者はベンガル湾沿岸域のインドのコルカタ(旧カルカッタ)を中心に、チェンナイ(旧マドラス)、バングラデシュのダカ(旧ダッカ)、ミャンマー(旧ビルマ)のヤンゴン(旧ラングーン)、シンガポール、マレーシアのマラッカ、ペナンなどの港町でアルメニア商人についての史料収集と墓碑調査を行ってきた。インド・東南アジアのアルメニア人のコミュニティについては史料も情報も少なく、あっても断片的で、在留アルメニア人の関係者もなかなか現れず、調査は困難を極めた」。
そのようななかで、新たな事実が明らかになってきた。それをまとめると、つぎのような特徴があることがわかり、「おわりに」で整理している。「第一に、アルメニアン・コミュニティの離散の「体験と記憶」である。「彼らは近代のインド、東南アジア、中国、日本の居留地や植民地では、支配者とは言えないまでも準植民者として遇され、自由な活動が可能な立場にあった。それに対して、植民地支配下にあった華僑・インド移民は圧倒的に被支配者の立場であり、収奪の対象であった。近代の「離散」状況について、民族によってこのような相違があったことは記憶されるべきではないか」。
「第二に、離散アルメニア人の「社会的・経済的地位」である」。「本書で取り上げた離散アルメニア人の多くは専門的職業人であった。いくつかの事例で挙げたように、彼らは貿易商・仲介商人・保険事業者・投資家・企業家であり、また専門職の弁護士や技術者であったし、社会的には現地の慈善家でもあった。彼らの多くは政治から一定の距離を置いてはいたが、現地の社会・経済・文化面では相応の影響力を持つ名士であった。それは東南アジアの華人有力層にも共通するのだが、「移民エリート」の典型でもあったといえる」。
「第三に、離散アルメニア人、特にアルメニア商人は「ニッチの民」だという特性である」。「近代のアルメニア商人の場合、各国・各地域の商会の存在と商会間の関係は独特である。「のれん分け」のようにして各商会が各地で独自に存在しており、本社-支社といった支配・従属型の強いネットワークがあったわけではない。資本・商品・人事・輸送路・契約先などについて、本社から強い規制があったわけでもない」。「それはアルメニア人の「分散し生存する」というサヴァイバル戦略ではなかっただろうか」。
「第四に、コミュニティの「紐帯」である」。「離散アルメニア人の大多数は「家族」を単位とする移動・定着を行った。この点で、華僑・インド移民の多くが単身男性の出稼ぎ移民であることと大きく異なる。とはいえ、アルメニア人の「家族」とは、おおむね一親等か二親等までで、あえて言えば「直接にコンタクトできる範囲の血統を絆」とする結びつきであろうか」。
第五に、「宗教とアイデンティティー」の関連である」。「アジア各地における離散アルメニア人のアイデンティティーについて、アルメニア教会やアルメニア人の信仰や氏名といった属性から掘り下げた」結果、離散アルメニア人の信仰が実に多様で、「単一の強固な宗教的信仰がエスニックのエトスだという考えは必ずしも自明なものではない。出自の多義的表明と宗教信仰の多様性とは、彼らの「戦略的アイデンティティー」の一つと考えられるだろう」。
グローバル化のなかで、人びとの行動の背後に国家が存在することがなくなってきた。「アルメニア人について語ろうとすれば、避けては通れない言説」である「「緩衝地帯」「ジェノサイド」「交易の民」は、有史以来「大国の干渉・侵略、離散という絶え間ない政治変動に翻弄されてきた」人びとにとって、自分たち自身で「生き方」を模索していかなければならないキーワードとなった。信頼できるのは、ごく身近な親族だけだった。著者が、アルメニア人の研究を通して得た結論は、「「積極的な意味での逃走」という概念と具体的な方策を我々が模索しなければ、二一世紀は衰亡の世紀になるのではないかとも感じている」だった。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
コメント