倉沢愛子・松村高夫『ワクチン開発と戦争犯罪-インドネシア破傷風事件の真相』岩波書店、2023年3月14日、239+11頁、2300円+税、ISBN978-4-00-061585-3

 戦後責任の問題がここにあり、それが戦後日本の歩みを誤らせ、現在もその後遺症に苦しむことになった。そんなことを具体的に考えさせる本である。

 戦中に中国で人体実験を日本軍がしていたことは知られるようになったが、インドネシアでもしていた。そして、それにかかわった医師らは、戦後その責任を問われることなく第一線で活躍した。そして、変わらなければならなかった医療体制は今日までつづき、現在の日本のワクチン開発、感染症対策などに影響しているという。

 本書の概要は、表紙見返しにつぎのようにまとめられている。「一九四四年八月、ジャカルタの収容所で、ワクチンを接種した「ロームシャ」が破傷風で多数死亡した。伝染性のない破傷風患者が、なぜ大量発生したのか。ワクチンを汚染した「犯人」として処刑されたインドネシア人医師、破傷風で命を落とした「ロームシャ」、そして遥か離れた中国大陸で七三一部隊の人体実験に供された「マルタ」をつなぐ日本軍の謀略が、八〇年の時を経て、いま明らかになる」。

 「はじめに」の「本書の何が新しいのか」で、著者らはつぎの解釈のもとで、この「冤罪説」を実証していくと説明している。「例えば日本軍側の過失などでこの医療事故が発生し、それを覆い隠すためにインドネシア人の医師に罪を着せたという可能性である。その場合推測できるのは、日本軍が破傷風ワクチン開発で躍起になっていて、その製造過程で効力を調べるためにロームシャに接種したところ、毒性が抜けていなくて死亡事故を起こしてしまったのではないかという可能性、つまり人体実験説である」。

 本書は、はじめに、2部全6章、終章、あとがきなどからなる。第Ⅰ部「つくられた破傷風ワクチン「謀略」事件」は4章(「ロームシャ収容所の地獄絵-破傷風患者の大量発生」「スケープゴートがつくられるまで-日本軍が捏造したドラマ」「蜘蛛の巣から逃れて-マルズキの場合」「行われなかった真相究明」)からなり、第Ⅱ部「それは人体実験だったのか-七三一部隊のワクチン戦略」は2章(「七三一部隊は何をしたのか-ハルビンからバンドゥンへ」「南方軍防疫給水部は何をしたのか-そしてパスツール研究所は」)からなる。

 そして、終章「医師たちの戦後」は、最後の「医療倫理と反戦思想の原点へ」をつぎのことばで締めくくっている。「「軍の、軍による、軍のための七三一部隊のワクチン戦略」を戦後引き継いできた日本の医学界は、とくに感染症学界は、その歴史的事実を厳しく見つめなおし、医療倫理と反戦思想の原点に立ち戻らなくてはならない、ということになるだろう。将来予想されるパンデミックに対処しうる、真に国民のための方策の確立を期待したい。その方策は、現在利権で動いている感染症村の解体をもたらすものでなけれなならない」。「そして、医師だけでなく市民一人ひとりが、戦前日本の植民地下にあった中国や東南アジアの国々で、人体実験の対象とされ、生きたまま治療台や解剖台の上で露と消えた「マルタ」や「ロームシャ」のことを想像していただきたい。なぜ私たちが長い間彼ら・彼女らを視野の外に置き、忘れていたのかも考えていただければと願う」。

 「帝国陸海軍の「亡霊」は、①国立感染症研究所(旧国立予防衛生研究所)、②東京大学医科学研究所(旧東京帝国大学付属伝染病研究所)、③国立国際医療センター(旧国立東京第一病院)、④東京慈恵会医科大学(旧海軍系病院)の四施設に現在も生きている。この帝国陸海軍の伝統が、今回のコロナ感染症対策、とくにPCR検査の抑制とデータの独占、国際的視野に立たない国産ワクチンの開発などに継承されている」といい、現場の医師をいらだたせた。

 さらに、「あとがき」で、つぎのように本書を総括している。「八〇年ほど前に、日本軍の占領下にあったインドネシアで発生した破傷風の集団発症事件。全身をくねらせ、痙攣させ、息絶えていった無力なロームシャたちの不気味な死の背後に何があったのか、それを突き止めることが本書の目的であった。海外の研究では限界があったこの調査は、インドネシア現代史を専門とする倉沢愛子に、長きにわたって日本軍軍医部の秘密資料を掘り起こすとともに、七三一部隊研究を続けてきた松村高夫が加わることによって、大きな展開を見ることができた。七三一部隊の東南アジア版とも言うべき南方軍防疫給水部がこの事件の背後にいたのではないかという推定を、その組織的・人脈的な連続性、彼らのそれまでの実験の蓄積などから明らかにし、実証することができたと思われる。そして、本書の検証を通じて、今日の日本のコロナ対策と七三一部隊とをつなぐ細い糸をも手繰り寄せることとなった」。

 この事件にかかわった科学者たちのリテラシーとは、いったいどのようなものだったのだろうか。今日日本の研究者は、たとえば早稲田大学では「教職員セルフマネジメントセミナー」が受講必須で、つぎの4つのセミナーを受講し確認テストで全問正解して合格しなければならない:情報セキュリティセミナー、ハラスメント防止セミナー、学術研究倫理セミナー、ダイバーシティ&インクルージョンセミナー。

 日本占領下のインドネシアでは、日本人科学者の活動も活発で、全土で調査がおこなわれ、それが戦後の日本の政府開発援助などによる資源開発につながった。なかでも石油産業は、接収したオランダ企業の科学・技術を「盗んだ」。それに関連した知識でのちにノーベル賞を受賞した者が出たとしたなら、どう考えたらいいのだろうか。「原子力村」や「感染症村」だけではない。戦争責任を明確にしなかった戦後のつけが、いまのわたしたちの社会をむしばんでいる。戦後責任は重い。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。