小田中章浩『戦争と劇場-第一次世界大戦とフランス演劇』水声社、2023年3月25日、436頁、6000円+税、ISBN978-4-8010-0720-8

 2023年7月27日、ウクライナ議会はトカチェンコ文化情報相の解任案を可決した。ロシアによる軍事侵攻が長期化するなかで、軍事関係に予算を優先的に使う考えのゼレンスキー大統領と、戦時下でも文化関係に国家予算を使うことの重要性を主張した文化情報相との対立の結果であった。文化情報相は、「われわれは自分たちの文化やアイデンティティーなどのために戦っているのではないのか。戦時下では文化は無人機と同じくらい重要だ」と訴えた。

 1970年からの内戦が落ち着くまでに23年間を費やしたカンボジアでは、飢餓に苦しむ人びとがいるなかでアンコールワットの保存に尽力した石澤良昭氏は、アンコールワットを失えばカンボジア人はカンボジア人でなくなると「文化とアイデンティティ」を強調した。

 本書は、戦争と文化の問題を、「現代の起点」となった第一次世界大戦とフランスの演劇を通して明らかにしようとするもので、戦争と演劇の関係を「序論」でつぎのように述べている。「そもそも英語を含めた西洋語においてtheaterとは「戦線(戦域)」(theater of war)を意味する軍事用語でもある。たとえば第二次大戦におけるEuropean theaterとは「ヨーロッパ演劇」ではなく、「ヨーロッパ戦線」を指す」。

 本書の内容は、「戦争と「見世物」の不可分の関係」の見出しの下、つぎのように帯にまとめられている。「価値観の転倒を引き起こした第一次世界大戦。激動のなか、威光を放ったフランス演劇界が強いられた変化とは? 愛国心を掻き立て、プロパガンダに与し、文化の威信を賭ける者。一時の娯楽を夢見て、炸裂する風刺の中に一抹の真実を見出す観客。風俗劇やレヴューの流行、そして前線で開かれる軍隊劇場……新聞・雑誌から検閲調書まで渉猟し、戦争と演劇の関係の本質に迫る」。

 本書の第一の目的は、第一次世界大戦が「文化の領域においても、西洋の人々に」「それまでの価値観を転倒させる精神の変容をもたらし」、「戦争開戦百周年にあたる二〇一四年を中心として、海外の研究が次々と紹介されただけでなく、一般向けの入門書や、国内の研究者による独自の研究も刊行され」たにもかかわらず、「これらの研究が演劇に触れることは、ほぼない」状況であることから、その「欠落を埋めること」にある。

 第二の目的は、つぎのように説明された。「第一次大戦とフランス演劇との関わりを多面的に見るとき、演劇を戦争の被害者、または協力者という単純な二分法で割り切ることができないことがわかる。以下でも述べるように、西洋演劇は古代ギリシャにおけるその誕生以来、戦争とともに存在してきた。演劇は戦争を利用しつつ(なぜならそれは多くの観客の関心を呼ぶテーマなのだから)、ときにそれに迎合し、ときにそれを批判した。そこから生じるのは、演劇と戦争はどのような関係を結ぶのか、という問題である。第一次大戦とフランス演劇との関わりをさまざまな視点から検討することにより、戦争と演劇の関係について考えること」である。

 本書は、序論、全8章、結論などからなる。それぞれの章は、「相互に独立しているのではなく、開戦から終戦、さらに戦後に向かって、ゆるやかな時系列に沿って叙述される。そこでは日本の読者にとって必ずしも身近なものではない、当時のフランスの劇界について説明するとともに、演劇に関係する範囲において、戦争の経緯や当時の社会状況についても触れる」。

 各章は、つぎのとおりである:「第一章 開戦とフランスの演劇界」「第二章 愛国主義的演劇の構造」「第三章 検閲とプロパガンダ」「第四章 前線劇場と民衆演劇」「第五章 劇界の主流派と戦争」「第六章 戦争風俗喜劇の流行」「第七章 レヴューの世界観」「第八章 戦後の「戦争劇」」。

 「結論」では、「戦争が演劇にもたらしたもの」「「ベル・エポック」から「狂乱の時代」へ」を論じた後、「レヴュー的世界観の登場」で締め括っている。「レヴュー的世界観」とは、「この世界は(ドラマではなく)レヴューのごときものである」という世界に対する認識であるとし、そこから導きだされる劇の構造は、つぎのようになる。「劇が劇であるという約束事を露呈させても構わない」「劇の進行は、必ずしも首尾一貫しない挿話、あるいはコントによって行われる」「したがって舞台は、歌と踊りによって中断されても構わない。あるいはそれが推奨される」「なぜならそれはレヴューだからである」。

 そして、つぎの3つのパラグラフで「結論」を閉じている。「二十世紀において、なぜこの「レヴュー的世界観」がもてはやされたのか。それは、軍隊レヴューに関して論じたように、私たちが自分自身を見つめなおす(リ・ヴュー)するために、レヴューが必要だからである」。「私たちは、自分たちがどのような世界にいるのかを知りたい。そのためにレヴューという鏡を必要とする。しかし私たちの自己像は、レヴューという脱線や矛盾だらけの形式によってしか反映されない。なぜなら世界はレヴューのごときものだからである」。「この自己撞着こそが、現代人の置かれた立場であるように思われる。自己と自己の像のあいだを仲介し、両者の関係を固定してくれる存在は、もういない。ヨーロッパ人にとって(そして現代人にとって)、神は第一次大戦とともに死んだ。そして自己を認識する場として、レヴューが残されたのである」。

 本書の執筆が可能になった背景は、「あとがき」で、つぎのように説明されている。半年間のサバティカル期間中に、「私は単に戯曲を読むだけでなく、一九一四年八月から一九年九月まで、五年分の「マタン」紙を、毎日の演劇欄(および劇場の広告)を中心に読んだ。そこから、当時上演されていた芝居のデータベースを作成した」。「たぶんこのデータベースがなければ、この時代の演劇を概観することはできなかっただろう」。

 そして、つづけて著者が本書で試みたことを、つぎのように総括している。「今ではほとんど知られていない劇作家や演劇人を中心として、ある時代の、フランスの劇界の様相を描くことである。これまで日本のフランス演劇研究(もっとも演劇だけではないが)は、一流のもの、高尚なものに偏りすぎていたのではないか。もちろん外国の演劇研究というマイナーな分野で活動する人間の数は限られており、したがって紹介すべき作品や研究対象が、一部の、すぐれたものに絞られるのは致し方なかった面がある。しかしそれによって、フランス演劇は、何か高級で、難解なものというイメージが出来上がってしまったように感じる」。

 著者は、「序論」でイギリスに比べ、フランスの「第一次大戦と演劇」研究は充分ではないと嘆き、「イギリスにおける研究」の紹介をしている。敵が首都にまで迫ったフランスと直接戦場とならなかったイギリスとでは、戦争のとらえ方が違い、当然身近に死と向きあったフランス人の方が、演劇であらわすことができないことが多い。ある程度の客観性が必要で、そのためにある一定の時間が必要であるが、時間が解決しない場合もある。戦時下で文化を重視する考えは、状況や立場の違いによって変わってくる。たんに余裕があるかないかだけではない、それぞれの「本質」がある。ウクライナの大統領と文化情報相のどちらが正しいのか、当事者が決めるしかない。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。