山本博之編著『マレーシア映画の母 ヤスミン・アフマドの世界-人とその作品、継承者たち』英明企画編集、2019年7月25日、477頁、2500円+税、ISBN978-4-909151-21-6
本書の意図は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「映画には、それが制作された国と地域の「現在」が反映されています。 脚本やキャラクターの造形、使用される音楽、起用される役者…… すべてが制作地固有の社会的背景を有しています。 とくにアジア地域では、制作者や作品が越境して 物語が混ざりあい影響しあう「混成化」とも言える状況がみられ国境をまたいで豊穣な物語文化圏が形成されています。 シリーズ「混成アジア映画の海」では 「混成性(越境と共生)」をキーワードに アジアの映画を観て愉しむとともに 監督・制作者の想いやアジア社会が抱える課題について考えることを通して 映画という芸術の愉しさを共有し 映画を通じてアジア社会についての理解を深めることをめざしています」。
かつて航空国際線で観ることのできた映画は、邦画か欧米の映画だけだったが、いまは航空会社や路線によって中国、韓国、台湾、インドに東南アジア各国の映画を観ることができる。東南アジアの映画を観たことがない者でも、試し観ができる。残念なことに、その社会的背景がわからず、つまらないと感じるものもあるかもしれない。「映画を通じてアジア社会についての理解を深めることをめざしています」というのも、納得できる。
その多々あるアジア映画のなかで、本書では「マレーシア映画の母 ヤスミン・アフマド」をとりあげる。その理由を、編著者山本博之は、「はじめに-現実と切り結ぶ「映画の力」を珠玉の作品群にみる」でつぎのように説明している。「ヤスミン作品を観ると、混成的なアジア世界を舞台に瑞々しい感性を持つ若者たちが織り成す切ない物語に心が打たれる。なぜ私たちはこれほどまでヤスミン作品に惹かれるのか。私たちがヤスミン作品から、優しさ、軽妙さ、切実さ、そして毅然としたものを受け取るのはなぜなのか。飽きずに繰り返し観たくなるヤスミン作品の奥深さの源泉はどこにあるのか」。
「これらのことを考えるには、ヤスミン映画の物語としての魅力を愉しむことに加えて、ヤスミンがこれらの物語を通じてマレーシアの人びとに何を語りかけようとしていたのかを知る必要がある。ヤスミンは、映画を通じて「もう一つのマレーシア」を美しく描くことで、現実のマレーシア社会における心の救済を物語に託した。ヤスミンは何に挑戦し、作品を生み出すためにどのような仕掛けを施したのか。このことについてマレーシアの文脈に即して理解することは、なぜこれほどまで私たちがヤスミン作品から豊かさと切なさを受け取るのかを理解する助けになるだろう」。
本書は、編著者が「思い込み半ばの深読みを含めて、ヤスミン作品のそこかしこに埋め込まれたメッセージを読み解いてみたい」ということから、全4部と資料の構成になっている。第1部「ヤスミン・アフマド作品の混成的な特徴と魅力-演出、情報提示、脚本、翻訳の視点から」では、「編者が考えるヤスミン作品の魅力と特徴について、マレーシアの社会と歴史の簡易な解説も含めて分析している」。第2部「多層的・多義的物語世界の愉しみ方-長編六作、短編一作を読み解く」では、「ヤスミンが遺した長編六作品、短編一作品のそれぞれについて、アジア映画および東南アジア地域研究を専門とする各者が多様な角度からその作品世界を読み解き、ヤスミンが伝えようとした想いを考えている」。第3部「ヤスミン・ワールドを支える人びと-先行の映画人・舞台人たちの物語」では、「ヤスミン作品を支えた先行の舞台人・映画人一〇名に着目した。彼ら・彼女ら自身の来歴も、ヤスミン作品を織り成すファクターとなって映画の中に紡ぎ合わされ、魅力の一つとなっている。その重なりと絡み合いの様子を知ることで、ヤスミン作品の世界がまた違った角度から理解できるだろう」。第4部「伴走者・継承者たちの歩み-約束を守り遺志を継ぎ伝える者」では、「ヤスミンとともに広告や映画の制作に携わり、現在もその遺志を継いで走り続けている三名を取り上げている。彼ら・彼女らの生き方と作品に見えるヤスミンの想いを汲み取っていただきたいと思う」。
本書のキーワードは、「深読み」である。何十回と出てくるように思えるこのことばは、最後の「資料」で極まり、「深読み(裏読み)」と書かれている。「深読み」をすることによって、帯にある「珠玉の作品群に込められた社会的背景とメッセージを多角的に読み解くことでヤスミン・ワールドをより愉しめる一冊」になる。 だが、「深読み」できない者にとっては、編著者ひとりの単著で読みたかった。ほかの執筆者とは研究会などを通じて共通の了解があるのだろう、多角的に読み解くことができるかもしれないが、「深読み」に関心のない者には手を変え品を変えて、同じ説明を繰り返しているにすぎない印象を受ける。
編著者およびほかの執筆者の何人かは「地域研究(とりわけ世界の諸地域を対象とする人文社会系の地域研究)」を専門とし、「対象とする社会の人びとの考え方や振る舞い方を踏まえてデータを解釈する文化の「翻訳」が肝要であるという姿勢は共通している」という。そのために、なぜ映画を「深読み」する必要があるのか、つぎのように説明している。「異文化を読み解く力は、研究者になるかどうかにかかわらず、現代世界で暮らす私たちに欠かせない素養の一つである。異文化の読み解き力を高めるには、大学院教育では長期にわたって現地社会の一員として暮らす方法が一般的だが、研究者になるのでなければ、映画の読み解きが効果的だと思う。映画を観て、おもしろいと思ったりつまらないと思ったりしたら、なぜそう感じるのかを考えるとともに、気になったセリフや場面や音楽について調べて、制作者がなぜそのような表現をしたのかに考えを巡らせてみる。制作者の意図を超えて深読みするのも映画の愉しみ方の一つだが、誤った情報に基づいた勘違いを避けるため、外国の映画については地域事情に詳しい人による基礎情報と読み解きガイドが増えるとよいと思う」。
映画の読み解きが、地域研究のための手段として効果的ならば、それを活かして「すばらしい地域研究の成果を期待したい」と、ここで締めくくりたくなる。だが、そんなことを意識する必要はなく、映画は映画として愉しみ、その結果「地域研究」のためになんらかの助けになればよしとし、役に立たなくてもいいのではないか。ヤスミンの対象は、あくまでもマレーシア人だろう。そのマレーシア人は出自もさまざまで、高等教育の場を海外に求めたことなどもあって今後もその混成性は複雑になっていくことだろう。国際的に認められるということは、マレーシア人にとってもプラスであり、それを目的としたわけではないだろう。本書で明らかなように、こうして日本人にかのじょの作品が認められたことも、マレーシア人のためにいいことだし、とくに日本人を意識して理解されようとしたわけではない。排他性を退け、異質なものも重要な要素として自分たちの社会に取り込むことが、マレーシア社会を豊かで楽しいものにしてくれる、そのために自分の作品をただ愉しんでくれればいいと思っているのではないだろうか。その「愉しむ」なかには、観た者がいろいろ考え、場合によっては苦しむことも含まれている。地域研究者を含め、映画を観たそれぞれの人の仕事や生活になんらかの刺激を与えることができれば、作品として成功したといえるのではないだろうか。たとえマレーシア映画好きがこうじて、地域研究の成果が出なくても、さして気にすることはないだろう。
本書の意図は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「映画には、それが制作された国と地域の「現在」が反映されています。 脚本やキャラクターの造形、使用される音楽、起用される役者…… すべてが制作地固有の社会的背景を有しています。 とくにアジア地域では、制作者や作品が越境して 物語が混ざりあい影響しあう「混成化」とも言える状況がみられ国境をまたいで豊穣な物語文化圏が形成されています。 シリーズ「混成アジア映画の海」では 「混成性(越境と共生)」をキーワードに アジアの映画を観て愉しむとともに 監督・制作者の想いやアジア社会が抱える課題について考えることを通して 映画という芸術の愉しさを共有し 映画を通じてアジア社会についての理解を深めることをめざしています」。
かつて航空国際線で観ることのできた映画は、邦画か欧米の映画だけだったが、いまは航空会社や路線によって中国、韓国、台湾、インドに東南アジア各国の映画を観ることができる。東南アジアの映画を観たことがない者でも、試し観ができる。残念なことに、その社会的背景がわからず、つまらないと感じるものもあるかもしれない。「映画を通じてアジア社会についての理解を深めることをめざしています」というのも、納得できる。
その多々あるアジア映画のなかで、本書では「マレーシア映画の母 ヤスミン・アフマド」をとりあげる。その理由を、編著者山本博之は、「はじめに-現実と切り結ぶ「映画の力」を珠玉の作品群にみる」でつぎのように説明している。「ヤスミン作品を観ると、混成的なアジア世界を舞台に瑞々しい感性を持つ若者たちが織り成す切ない物語に心が打たれる。なぜ私たちはこれほどまでヤスミン作品に惹かれるのか。私たちがヤスミン作品から、優しさ、軽妙さ、切実さ、そして毅然としたものを受け取るのはなぜなのか。飽きずに繰り返し観たくなるヤスミン作品の奥深さの源泉はどこにあるのか」。
「これらのことを考えるには、ヤスミン映画の物語としての魅力を愉しむことに加えて、ヤスミンがこれらの物語を通じてマレーシアの人びとに何を語りかけようとしていたのかを知る必要がある。ヤスミンは、映画を通じて「もう一つのマレーシア」を美しく描くことで、現実のマレーシア社会における心の救済を物語に託した。ヤスミンは何に挑戦し、作品を生み出すためにどのような仕掛けを施したのか。このことについてマレーシアの文脈に即して理解することは、なぜこれほどまで私たちがヤスミン作品から豊かさと切なさを受け取るのかを理解する助けになるだろう」。
本書は、編著者が「思い込み半ばの深読みを含めて、ヤスミン作品のそこかしこに埋め込まれたメッセージを読み解いてみたい」ということから、全4部と資料の構成になっている。第1部「ヤスミン・アフマド作品の混成的な特徴と魅力-演出、情報提示、脚本、翻訳の視点から」では、「編者が考えるヤスミン作品の魅力と特徴について、マレーシアの社会と歴史の簡易な解説も含めて分析している」。第2部「多層的・多義的物語世界の愉しみ方-長編六作、短編一作を読み解く」では、「ヤスミンが遺した長編六作品、短編一作品のそれぞれについて、アジア映画および東南アジア地域研究を専門とする各者が多様な角度からその作品世界を読み解き、ヤスミンが伝えようとした想いを考えている」。第3部「ヤスミン・ワールドを支える人びと-先行の映画人・舞台人たちの物語」では、「ヤスミン作品を支えた先行の舞台人・映画人一〇名に着目した。彼ら・彼女ら自身の来歴も、ヤスミン作品を織り成すファクターとなって映画の中に紡ぎ合わされ、魅力の一つとなっている。その重なりと絡み合いの様子を知ることで、ヤスミン作品の世界がまた違った角度から理解できるだろう」。第4部「伴走者・継承者たちの歩み-約束を守り遺志を継ぎ伝える者」では、「ヤスミンとともに広告や映画の制作に携わり、現在もその遺志を継いで走り続けている三名を取り上げている。彼ら・彼女らの生き方と作品に見えるヤスミンの想いを汲み取っていただきたいと思う」。
本書のキーワードは、「深読み」である。何十回と出てくるように思えるこのことばは、最後の「資料」で極まり、「深読み(裏読み)」と書かれている。「深読み」をすることによって、帯にある「珠玉の作品群に込められた社会的背景とメッセージを多角的に読み解くことでヤスミン・ワールドをより愉しめる一冊」になる。 だが、「深読み」できない者にとっては、編著者ひとりの単著で読みたかった。ほかの執筆者とは研究会などを通じて共通の了解があるのだろう、多角的に読み解くことができるかもしれないが、「深読み」に関心のない者には手を変え品を変えて、同じ説明を繰り返しているにすぎない印象を受ける。
編著者およびほかの執筆者の何人かは「地域研究(とりわけ世界の諸地域を対象とする人文社会系の地域研究)」を専門とし、「対象とする社会の人びとの考え方や振る舞い方を踏まえてデータを解釈する文化の「翻訳」が肝要であるという姿勢は共通している」という。そのために、なぜ映画を「深読み」する必要があるのか、つぎのように説明している。「異文化を読み解く力は、研究者になるかどうかにかかわらず、現代世界で暮らす私たちに欠かせない素養の一つである。異文化の読み解き力を高めるには、大学院教育では長期にわたって現地社会の一員として暮らす方法が一般的だが、研究者になるのでなければ、映画の読み解きが効果的だと思う。映画を観て、おもしろいと思ったりつまらないと思ったりしたら、なぜそう感じるのかを考えるとともに、気になったセリフや場面や音楽について調べて、制作者がなぜそのような表現をしたのかに考えを巡らせてみる。制作者の意図を超えて深読みするのも映画の愉しみ方の一つだが、誤った情報に基づいた勘違いを避けるため、外国の映画については地域事情に詳しい人による基礎情報と読み解きガイドが増えるとよいと思う」。
映画の読み解きが、地域研究のための手段として効果的ならば、それを活かして「すばらしい地域研究の成果を期待したい」と、ここで締めくくりたくなる。だが、そんなことを意識する必要はなく、映画は映画として愉しみ、その結果「地域研究」のためになんらかの助けになればよしとし、役に立たなくてもいいのではないか。ヤスミンの対象は、あくまでもマレーシア人だろう。そのマレーシア人は出自もさまざまで、高等教育の場を海外に求めたことなどもあって今後もその混成性は複雑になっていくことだろう。国際的に認められるということは、マレーシア人にとってもプラスであり、それを目的としたわけではないだろう。本書で明らかなように、こうして日本人にかのじょの作品が認められたことも、マレーシア人のためにいいことだし、とくに日本人を意識して理解されようとしたわけではない。排他性を退け、異質なものも重要な要素として自分たちの社会に取り込むことが、マレーシア社会を豊かで楽しいものにしてくれる、そのために自分の作品をただ愉しんでくれればいいと思っているのではないだろうか。その「愉しむ」なかには、観た者がいろいろ考え、場合によっては苦しむことも含まれている。地域研究者を含め、映画を観たそれぞれの人の仕事や生活になんらかの刺激を与えることができれば、作品として成功したといえるのではないだろうか。たとえマレーシア映画好きがこうじて、地域研究の成果が出なくても、さして気にすることはないだろう。
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