石濱裕美子『物語 チベットの歴史-天空の仏教国の1400年』中公新書、2023年4月25日、264頁、900円+税、ISBN978-4-12-102748-1

 「本書で述べた歴史はチベット一国史にとどまらず、モンゴル史、清朝史、現在では世界の歴史と複雑にからみあっている。チベット史がここまで広大な地域に影響を及ぼすことになった理由の一つには、チベット仏教思想のもつ普遍性があることは疑いない」。「終章 現代の神話、ダライ・ラマ十四世」の終わりのほうの一節である。

 「世界が存在する限り 命あるものが存在する限り 私も輪廻の中にとどまって 有情の苦しみを滅することが できますように」の祈りとともに、人びとを魅了してきた思想がある限り、「「チベット」は国として存在するしないにかかわらず、消えることはない」。

 本書の全容は、表紙見返しにつぎのように記されている。「古代に軍事国家だったチベットはインド仏教を受容、12世紀には仏教界が世俗に君臨する社会となった。17世紀に成立したダライ・ラマ政権はモンゴル人や満洲人の帰依を受け、チベットは聖地として繁栄する。だが1950年、人民解放軍のラサ侵攻により独立を失い、ダライ・ラマ14世はインドに亡命した。チベットはこれからどうなるのか? 1400年の歴史を辿り、世界で尊敬の念を集めるチベット仏教と文化の未来を考える」。

 本書は、序章、全4章、終章、あとがきなどからなる。「序章 仏教国家チベットの始まり」を、つぎのパラグラフで締め括っている。「古代から現代に至るまで、一貫した仏教史観をもつチベット。その冒頭を飾る古代チベット帝国の歴史について、まずは同時代史料からわかる断片的な事実から述べ、次に仏教思想のフィルターのかかった後の歴史記述を見ていこう」。

 本文4章は、時系列に「第一章 古代チベット帝国と諸宗派の成立」「第二章 ダライ・ラマ政権の誕生」「第三章 ダライ・ラマ十三世による仏教界の再興」「第四章 ダライ・ラマ十四世によるチベット問題の国際化」からなる。

 チベットの通史を書くにあたって問題となるのが、地域、時期、民族である。「あとがき」で、つぎのように説明している。「チベットは歴史の中で拡大・縮小を繰り返しているため、その線引きは難しい。古代チベット帝国の軍事力は北は中央アジア、西はバルティスタン、東は一時は唐の都長安を占領するほどの勢威があったが、それらすべてが現在のチベット人居住域ではない」。

 「また、時代についてもどこまでを扱うかの判断が難しい。一九五一年に中国政府がチベットを占領し、本土チベットの歴史は中国史の一部になった(略)。このことを考慮すれば一九五〇年にチベットは終わったとみなし、通史の筆を擱くという考え方もある。しかし、亡国でチベットの歴史が終焉したとはいえまい。インドに亡命したダライ・ラマ十四世は、難民社会でチベット文化を維持し続けているし、本土チベット人も自らのアイデンティティを中国人と一体とはみなしていない」。

 「このような現実を踏まえ、本書では基本はラサを中心とするチベット高原上の歴史をメインとし、加えて、他民族(モンゴル人、満洲人、欧米人)、他国であっても、チベット本土にある政権やチベット文化が、大きな影響を与えた場合については、その民族ないし国との関係に言及している(ただし、ブータン、シッキム、雲南、東チベット地域に住むチベット語話者の歴史については焦点がぶれるため触れなかった)。さらに、時代としては現在のチベット人が自らの歴史と認識している古代から現代までを対象とした」。

 気にせず「国立博物館」や「国立図書館」などというが、そのなかにどの地域、どの時代、どの人びとを入れるのか難しい。それが現在の戦争や紛争を誘発する恐れがあるからである。逆に国民国家にとって、「国民」を対象とした博物館や図書館は、ナショナリズムを確定するのに重要な役割を果たすことから、是が非でもつくりたいところである。だが、インド国立博物館のように、古代文明、仏教関連、ヒンドゥー教関連の展示はあっても、イスラーム関連のものはない、「国立」とはなにかを考えさせられるものもある。歴史博物館は、もっと難しい。日本でも、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)に1930-70年代までを扱う展示室がオープンしたのは2010年のことで、展示内容もなにやら自信なげなものになった。国としての歴史を語ることの難しさは、チベットだけではない。グローバル時代の歴史学の重要性が唱えられているなかで、なにも考えずに国史を教えているほうが恐ろしい。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。