西直美『イスラーム改革派と社会統合-タイ深南部におけるマレー・ナショナリズムの変容』慶應義塾大学出版会、2022年11月25日、276頁、5000円+税、ISBN978-4-7664-2858-2

 カトリック教徒が大多数を占めるフィリピンの南部にかつてイスラーム王国があり、仏教徒が大多数を占めるタイの南部にかつてイスラーム王国があって、ともに分離独立や自治権を要求する武装勢力がテロをおこない治安が悪く、行けないときがあった。フィリピンは日本の「援助」もあって自治権が拡大しようとしているが、タイはこのところあまり聞かれなくなってどうなっているのか。そんなことを考えながら、本書を開いた。

 本書の目的は、「はじめに」で、つぎのようにまとめられている。「思想的な背景や運動に着目するイスラーム主義研究の成果と、人びとのイスラームをめぐる価値観を社会や国家とのつながりにおいて理解しようとする人類学者の問題意識をふまえたうえで、タイにおけるイスラーム改革派の特徴と、改革派が深南部にもたらした変化について考察することである」。

 本書は、はじめに、全6章、おわりに、などからなる。

 第1章「タイ・ムスリムの創造」では、「まず、歴史、政治、社会的な背景をふまえつつ、タイによる統治と、マレー・ムスリムによる抵抗の側面から、深南部問題を概観して」いく。「タイでは、ムスリムを示す言葉としてケーク(客)がもちいられることがあるが、この言葉がタイ国家にとってムスリムがいかに他者であったかを象徴するものでもある。近代国家としての歩みをはじめたタイは、深南部のムスリムを統治するにあたって「タイ・ムスリム」を創造しようとしてきた。しかし深南部のムスリムの帰属意識は、歴史のなかで社会的に構築されてきたパタニ・マレーとしての帰属意識と深く結びついた概念でもある。本章では、タイ・ムスリムとパタニ・マレーのせめぎあいの変遷について検討する」。

 第2章「イスラーム伝統派と改革派」では、「タイにおけるイスラーム改革派の特徴を明らかにするため、ナショナリズムとイスラームをめぐる用語や概念を深南部の文脈をふまえつつ整理する。イスラーム復興のなかでも、とくにサラフィー主義は、世界のムスリム社会内部での対立の最前線として注目されている。タイにおいても例外ではなく、1970年代にイスラーム諸国に留学した指導者が率いたサラフィー主義が、マレー・ナショナリズム運動と対峙するようになっていった。本章ではさらに、サラフィー主義の信条や、その信条を実現する方法の違いに応じた類型を参考にしつつ、深南部のサラフィー主義、そしてイスラーム改革派を位置づける」。

 「伝統派か改革派かにかかわらず、タイのイスラーム指導者にとって大きな問題となってきたのは、イスラームをめぐる法制度と教育であった」。第3章では法制度を、第4章では教育を考察する。

 第3章「イスラームの管理統制とその限界」では、「タイにおけるイスラーム行政、イスラーム法制度の構築と、その限界について検討する」。「実際に紛争が生じたときに裁定が求められるのは村のモスクのイマーム(指導者)や県イスラーム委員会であり、参照される教義にたいする見解は、地域で著名なイマーム、バーボー(寄宿型のイスラーム塾であるポーノの指導者)によるものなど多岐にわたっている」。「人びとが参照する「見解」が、改革派と一部の伝統派で鋭く対立している例として、文献上でみられるジハードの解釈を比較」する。

 第4章「ポーノから学校へ-イスラーム改革派と教育の近代化」では、「タイ政府と深南部との相互関係のもとで構築されてきたイスラーム教育制度について検討していく。1960年代以降、伝統的なポーノの管理が強化され、タイ語での普通教育をおこなう私立イスラーム学校への改編が義務づけられた。このことが、一般的に分離独立運動が興隆した一因であると理解されている。1970年代以降、タイ南部国境地域のムスリムのニーズに対応するため、政府は公立学校における部分的なイスラーム教育の導入に踏み切った。タイ語でイスラーム教育をおこなうカリキュラムや、大学レベルでのイスラーム教育がしだいに整備されてきた。イスラーム教育の場が多様化するとともに、イスラームをめぐる価値観も変化している」。

 「世界のムスリム社会で観察されたイスラーム復興にかんして、女性のスカーフ着用やイスラーム政党、イスラーム銀行の増加から、イスラーム系武装組織の台頭に至るまで、さまざまなテーマが扱われてきた。第5章と第6章では、タイにおけるイスラーム復興を社会と政治の側面から検討していく」。

 第5章「イスラームが生み出す社会の亀裂」では、「まず、タイにおけるイスラーム復興を象徴する出来事であったスカーフ運動を中心に検討する」。さらに「改革派の影響が問題視されるとともに人びとに認知されるようになった「ビドア」という言葉を手掛かりに、改革派と伝統社会の関係について考察する」。

 第6章「イスラーム復興と政治」では、「深南部のムスリムによって結成された政治派閥やイスラーム政党のこころみについて述べたのち、あらためてジハードのとらえ方についてインタビュー調査をもとにみて」いく。「深南部の武器による闘争がジハードなのかという点についての考えを通して、人びとと国家やマレー・ナショナリズム運動との距離感について検討していく」。

 「終章」にあたる「おわりに-イスラーム改革派と伝統派の接近?」では、イスラームをめぐる価値観が変化していくことを意識しながら、「タイ深南部において、イスラーム改革派が変えた人びとと社会、国家との関係について本書の結論を述べるとともに、それを他のイスラーム地域や社会にどの程度敷衍できるか若干の考察を加え」る。

 その「結論」は、「おわりに」の端々で述べられている。まず、歴史的につぎのようにまとめている。「19世紀後半にはじまったシャム(タイの旧称)の行政改革を経て、1909年に締結されたシャムとイギリスとの領土確定条約をもって、マレー系のスルタン王国パタニが解体された。近代的な領域国家をめざすタイがこころみてきたのは、タイ・ムスリムの創造であった。しかしパタニ・ナショナリストの抵抗が成功したことによって、パタニ・マレーはタイの歴史に埋没することを免れた」。

 つぎに、教育においては「1980年代、ムスリムの海外流出を防ぐことを目的にイスラーム高等教育の導入が検討されはじめ、1990年代から2000年代にかけて、しだいに大学レベルのイスラーム教育が整備された」。

 そして、重要なことは、「ジハードをめぐる解釈」が「よりニュアンスに富んでいる」ことで、つぎのようにまとめている。「ジハードの解釈は、パタニ・マレーとしての帰属意識を表明することを可能にすると同時に、イスラームを強調することによってマレー・ナショナリズム運動から距離を取ることも可能としてきた。分離独立運動に何らかのかたちでかかわる人はもちろんのこと、市井の人びとは分離独立運動にたいしてマレー・ムスリムとしての共感を抱きつつも、さまざまなジハードがあり、そのための選択肢が与えられていると認識している。パタニ・マレーとしての帰属意識をもち、分離主義の理念に共鳴していたとしても、深南部における闘争がかならずしも宗教や信仰の側面からとらえられているわけではない」。

 最後に、「おわりに」の副題である「イスラーム改革派と伝統派の接近」について、つぎのように述べて、本書の結論としている。「深南部において、一見すると改革派と伝統派は、交わることのない世界に住んでいるかのようではある。タイ国内だけでなく、国外にいるマレー・ムスリムのあいだでも改革派と伝統派の違いが存在し続けていることも事実である。しかしイスラームの教えを実現することやムスリムの地位を向上させるという点において双方の目的に違いはなく、乗り越えられないほどの断絶ではないことも人びとのあいだで意識されるようになってきた。伝統派の一部を占める分離主義者が独立や自治を遂げてからイスラームに基づく統治の実現を目指すのにたいして、改革派はまず国家に浸透したうえでイスラーム化を目指そうとしてきたといえるかもしれない。一時コミュニティの断絶をもたらした改革派は、時間をかけてローカル化し、伝統社会の漸進的な変化をともないながら、しだいに村落部においても受け入れられるようになっている。イスラームの原典への回帰を志向する改革派の動きは、タイの文脈において紛争を回避し、マレー・ムスリムの社会統合を促進する方向で働いてきたといえる」。

 本書を読んで、すこし安心した。ジハードを武装闘争だけにこだわらず、平和裏に進めようとしていることで、それは近年のアセアンの経済成長と関係しているだろう。タイ国内での内戦になれば、経済的後退は避けられない。豊かさを知った人びとは、タイ国民国家の経済的豊かさを失うことの意味を理解しているのだろう。それは、ムスリムだけでなく、仏教徒も深南部の政治的不安定がタイ国家にとってマイナスのなることを理解しているからだろう。フィリピンでの成否のかぎは、キリスト教徒がどれだけ理解しているかにかかっているだろう。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第一期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。