小川忠『変容するインドネシア』めこん、2023年12月10日、469頁、3200円+税、ISBN978-4-8396-0336-6

 インドネシアなど東南アジアの多くの国では、近年の経済発展にともなう大きな変容に戸惑っている人びとがいる。その様子を見ている研究者のなかには興奮して、いま起こっている現象を考察、分析しようとしている者がいる。だが、表面上の変化を追っている者と、基層文化・社会、歴史のなかで理解しようとしている者とでは、大きく違う。前者は一過性のものとして評価されるかもしれないが、後生まで先行研究として残るのは後者である。本書は、後者のひとつとなるものである。

 著者は、1989-93年に国際交流基金ジャカルタ日本文化センター駐在員、2011-16年同基金東南アジア総局長(在ジャカルタ)の経歴をいかして、肌で感じた基層文化・社会、歴史を背景に本書を執筆している。すでに10冊ほどの単著を出版し、書き慣れた文章で読者を誘っている。博士号も取得している。

 序章「なぜインドネシアに注目する必要があるのか」では、その肌で感じた「変化」が紹介され、最後の「本書の構成」の冒頭、つぎのようにまとめている。「経済成長によって、貧富格差が激しかったインドネシアで中間層が拡大し、中間層が主役となる社会が誕生した。中間層が購買意欲をそそらせ消費活動を行なうことによって経済が回る消費社会化が進んだ。中間層の親は、子どもに自分たちよりも高い社会的地位を得させようと教育に熱心で、その結果、社会全体の高学歴化も進む。高学歴の若者は母語のみならず、外国語能力にも長け、海外情報に敏感だ。グローバリゼーションの申し子たる彼らは、最新のICT[情報通信技術]技術を使いこなす。彼らにとってICTはなくてはならない存在だ。二〇一〇年代、日本以上に急速に、インドネシア社会のデジタル化が進んだ」。「このように彼ら中間層が社会構造や国民意識を変えつつある中で発生した新型コロナウィルスのパンデミックは、この国の未来にどのような影響を及ぼしていくのだろうか」。

 以上の状況を踏まえて、著者は「本書が意図するのは、現在のインドネシアで起きている変化と多様性に焦点を当て、今後のこの国の方向性を考える材料を読者に提供することである」としている。

 本書は、序章、3部全16章、終章などからなる。第1部「インドネシア社会-変化の潮流と多様性」は2章からなり、「現代インドネシア社会の変化の二大潮流である宗教復興とデジタル化について論じる。宗教復興(イスラーム教徒国民の宗教意識活性化現象)が生んでいる一つの概念、すなわち信仰心の高揚に伴いインドネシア・イスラームが従来備えていた美風(少数派への寛容性)を失いつつあるのではないか、という点について検討する(第1章)。またグローバリゼーションに乗り遅れまいと、この国においてもICTを活用した社会変革が進行中だ。新型コロナウイルス危機は、さらにこの変革を加速させた。デジタル技術が脚光を浴び始めたとき、双方向コミュニケーションを可能とするデジタル技術は民主化のツールと目されていたが、それは本当か。デジタル化がインドネシアの民主主義にもたらしている光と影とは何か、を論じる(第2章)」。

 第2部「社会・文化変容から見たインドネシア各地」は10章からなり、「第1部で紹介した宗教復興とデジタル化が、具体的にはどのような変化をもたらしつつあるのか、インドネシア各地において、それぞれの歴史と特性を踏まえて、つぶさに見てみたい。インドネシアの地理的多様性と社会的特性を考慮して、ジャワ島とジャワ島外の重要な都市、州に焦点を当てる(第3~12章)」。

 第3部「コロナ禍後の世界におけるインドネシア」は4章からなり、「第1部、第2部で分析したインドネシア社会内部の変化および新型コロナウイルス危機が、国際社会におけるインドネシアの自らの位置取り、対外関係構築にもたらしているインパクトについて考える(第13~15章)。そして第3部の締めくくりとして、第16章でコロナ禍を契機に自らの原点を再確認しようという気運が高まっているインドネシア・ナショナリズムについて論じ、終章では日本インドネシアの未来を考えた提言を行ないたい」。

 第1部のインドネシアの「グローバリゼーション」と連動する「イスラーム化」「デジタル化」は、第1部の最後でつぎのようにまとめられている。「この国で進行中の宗教復興、市民社会の拡大とも共鳴し、独特の色彩を帯びるに至っている。デジタル化が進むインドネシア社会の政治面でステルス権威主義の色が濃くなり、非寛容なイスラーム一派のネット空間での「不信者狩り」が行なわれる一方で、逆バネが作動していることも、この国の行く先を考える上で見過ごせない」。

 第2部は、本書を編集・出版した「めこん」代表者の桑原晨さんの注文、「各州の視点に立ってインドネシアを論じてほしい。全州をカバーするつもりで」を反映したもので、著者は「改めてこの国の多様性の奥深さを、筆者自身が実感する機会になった」と、「あとがき」で述べている。

 具体的には、「「イスラーム化」の衝撃は、イスラーム社会のみに限らない」ことに気づき、つぎのようにバリの事例を紹介している。「ジャワ島の「イスラーム化」が刺激となって、東隣のバリ島ではバリ・ヒンドゥー文化の復興運動「アジュグ・バリ」が活性化している(第6章)。またバリで受容されてきた昔ながらのヒンドゥー信仰は、本場インドのヒンドゥーとはかなり異なる信仰形態だったのだが、グローバリゼーションの副産物として二〇世紀後半インドで力を増した排外的なヒンドゥー・ナショナリズムがバリに持ち込まれている。インドネシアの国家建設の一環として行なわれている国際観光開発が、バリ人の自己認識を変えつつある(ヒンドゥー宗派意識の強化)という側面もある。バリの変化は複雑だ」。

 第3部では、「「イスラーム化」と「デジタル化」というインドネシア国内の社会変化は、インドネシア外交にも影響を及ぼしている」ことを考察している。「スハルト政権崩壊後の国内の混乱をおさめることに精一杯だった時期を脱し、安定を取り戻したインドネシアは、より積極的に国際社会に関わっていこうとしている。そうした姿勢の中で、本書ではインドネシア外交の傾向としてイスラーム外交(第13章)新・非同盟外交(第14章)を取り上げる一方、国際的に存在感を高めるインドネシアに対する中国の文化外交、それに絡むインドネシア華人のアイデンティティーについて述べた(第15章)」。

 そして、終章「日本・インドネシア関係の未来に向けて」を、つぎのように締めくくっている。「三〇年後の世界において、日本とインドネシアは、どのような関係をとり結んでいるのだろうか。経済的には相互互恵のパートナーシップを創造し、より多くの国民が往来するようになる結果、日本在住インドネシア人、インドネシア在住日本人の数も増えて、より身近な隣人と感じられるようになっているだろうか。文化面では三〇年後もインドネシアは日本語学習大国であり続ける一方、日本の高校・大学でインドネシア語を学ぶ若者が増えて、言語学習を通じて両国民間の相互理解は深まっているだろうか」。「より多くの価値を共有するようになった未来の両国民が、共に手を取り合って世界の平和と安寧に貢献する関係を築いていることが現実となっていたら、こんな嬉しいことはない」。

 本書が、著者ひとりの力によって書かれていないことは、著者がいちばんよくわかっている。随所に先行研究からの引用が執筆者の名とともにある。執筆にあたって、「あとがき」に名前をあげている直接助言を得た人びとだけでなく、多くの人びとの話に耳を傾けてきたことが本書を支えていることがわかる。コロナ禍で「耳学問」ができず、仲間内だけで「いまの変容に興奮している」者が書いたものと、ひと味もふた味も違うものに仕上がっている。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第一期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。