古田和子・太田淳編『アジア経済史 上』岩波書店、2024年1月26日、352頁、3400円+税、ISBN978-4-00-061626-3
経済史は、経済学を基本としたものと歴史学を基本としたものとでは、まるで違う。本書は、地域研究を基本としたものである。それは社会科学的理論だけにもとづいたものでもなければ、文献だけを中心に考察したものでもなく、どういうものを基本にしたかは本書第Ⅰ部「アジア経済の基層」で示されている。第1部は4章からなり、それぞれの章のタイトルは「環境と人びと」「人口変動と人口移動」「物質文化-湿潤気候下の衣食住」「歴史の個性」である。
地域研究としてのアジア経済史は、つぎのようにまとめられている。「アジアは、域内での貿易・投資の相互依存関係を深めることで、経済成長を地域として実現したことが特徴であったが、東アジア、東南アジア、南アジアの関係は近年あきらかに変化しつつある。現在のアジアは、域内の国際政治秩序をどう担保し、経済連関の枠組みをどう再編するのかという喫緊の課題に直面している。こうした状況を念頭に置くとき、アジアの社会経済変化を長期的なタイムスパンで捉え、アジア経済を形作ってきた特徴や地域の相互作用を改めて検討し理解する作業は、今後の世界を見通すために不可欠な視座を私たちに与えてくれるだろう」。
アジアのなかでも、なぜ東アジア、東南アジア、南アジアなのかは、序章「アジア経済史とは」で、つぎのように説明している。「本書は東アジア、東南アジア、南アジアに相当する地域を対象とし、ケッペンの気候区分で言えば亜寒帯から、温帯、熱帯、乾燥帯まで多様な気候帯を含むが、主要地域はモンスーン(季節風)の影響を大きく受ける、いわゆるモンスーンアジアに属する、世界の三大穀物の一つであるイネ(米)はモンスーンアジアを原産とし、一粒から得られる収穫倍率をみたとき、その効率はコムギをはるかに上回り人口扶養力が高い。高温湿潤を好むイネの栽培環境は感染症や病虫害の脅威も大きく、洪水・塩害を防ぎながら稲作が現在のような巨大な人口を支えるようになるためには一定の技術的進歩が必要だった」。
本書が「対象とする時期は16世紀から現代までである。ただし、環境、気候変動、疾病,人口、物質文化、歴史の個性など、アジア経済の基層を形成している要素については15世紀以前にも遡って考察している」。
本書は、3つの分析視角に焦点をあてており、それぞれつぎのように説明している。第一の「アジア経済の「連関」を問う視点」は、「後にアジア交易圏論と総称され」たもので、論者たちは「それぞれの専門地域の比較史ではなく、地域間の連関を探ろうとする方向性」で一致し、「アジアの近代史を各国別に足し合わせた単純総和としてのアジア史を止揚することをその根底に合意していた。言い換えれば、「アジア経済史」という分析枠組みを設定することで初めて明らかになるアジア経済の構造がある」ということが示された。
第二の「アジア地域の「比較」を考える視点」では、「「比較」の基準には国家と財政、家族・相続・社会集団などさまざまなものがあるが、ここではそのなかで市場と市場秩序とを取り上げ」る。
第三の「「人びとから出発する」視点」では、「人びとから出発する方法として」、「人びとが個別の経済活動を行うときになぜか拘束されるものであり、外からの強制ではないという意味で内生的な秩序形成である」共有予測を探ることが有用であり、「また、人びとが日常的な概念形成をする際に好まれる考え方や感じ方、理解の仕方、表現の仕方に注目することももう一つの視点として重要である」と説明している。
本書は6部からなり、「上」巻である本書では第Ⅳ部の前半まで全12章からなり、第Ⅳ部の後半と第Ⅴ-Ⅵ部は「下」巻になる。各部は、序章の最後「本書の構成」でまとめられており、「教科書」になることを念頭に、各部の最初の1頁で各部、各章の概要がまとめれている。
第Ⅰ部「アジア経済の基層」では、「アジア経済の基層を構成する要素を検討する。地形、気候、疾病、人口、物質文化(衣食住)という要素は、人間の経済活動とその歴史の根幹となる層を構成していると言える。人びとが形成する社会そして国家はこれらの層の上に築かれ、さまざまな歴史経験を経ていっそう多様な特徴を持つようになった」。
「第Ⅱ部から第Ⅵ部はアジア経済史を時系列に沿って叙述していく。各部の冒頭では、アジア経済における「連関」の側面を国際商業活動や貿易構造の変化、人の移動などに焦点を当てて俯瞰し、次に地域の「比較」を念頭に国家の制度や財政などを検討する。最後に、在地の経済社会の変容を地域別あるいは国別に詳しく見て」いく。
第Ⅱ部「連動するアジア経済-銀の時代の始まり、16-17世紀」は、「16-17世紀を対象とする時代を扱う。アジア各地の経済は大量に流入する銀-日本銀とアメリカ大陸銀-を媒介に緊密の連動し、その動きは世界ともつながってさまざまな経済主体がアジア貿易に参入し激しい競争を繰り広げた。その過程で登場した新しい政治経済勢力が近世のアジアを作っていくことになる。在地の経済では、東アジア世界を特徴づける小農経済の形成と定着を、東南アジアでは貿易ブームがもたらした光と影を、南アジアでは国家と地方の緊密化を考察する」。
第Ⅲ部「成熟するアジア-18世紀」は、「18世紀を「成熟するアジア経済」と捉え、地域間のつながり、国家と財政、市場経済という三つの視角を軸に検討する。各地域をつなぐ貿易のなかでは特に中国・東南アジア間の貿易が発展し、広州では対ヨーロッパ貿易が成長した。経済が発展する一方、各地で国家財政が悪化し、東南アジアと南アジアでは英蘭東インド会社が勢力を伸ばした」。
第Ⅳ部「「衝撃」とアジア経済-長期の19世紀」は、「18世紀末から第一次世界大戦前までの「長期の19世紀」と呼ばれる時代を扱う。強制された自由貿易、国際通貨制度・交通通信インフラの導入、不平等条約による開港、そして植民地化の進展は、西洋からの「衝撃」を受けてこの時代のアジアが直面した新しい構造であった。第Ⅳ部の前半では、東アジア、東南アジア、南アジアが各地域レベルでどのような対応と再編をみせたのか、またその過程で、シンガポール・香港・上海・大阪などの都市とそれらがつなぐ広域ネットワークがどのような形でアジア経済史に登場したのかも考え」る。
巻末の「執筆分担」を見て驚いた。9人の執筆者がかなり細かく分担している。1節を4人で分担したものもある。その結果、それぞれの専門性を活かした「基層」を踏まえた個々の正確さが可能になっただろうが、いっぽうで「連関」と「比較」を意識したため繰り返しが目立つことになった。
もうひとつ気になったのは、参照文献の多くが2000年前後で、すこし古いのではないかと危惧した。その危惧は的中し、すでに義務教育の教科書から消えて久しい「士農工商」の身分制度がでてきて不安になった。ほかでも、講座や事典に書かれたものが、後により信頼性の高い学術書・論文の一部になったものがある。「教科書」として使われることを想定するなら、各部の最初だけでなく、各章の最後にも「まとめ」がほしかった。学生が読んだ内容を確認するために、そして試験対策用に。
ともあれ、「全域を俯瞰するはじめての通史」として、広い視野をもって地域や時代をみることができる、ありがたい「教科書」である。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月(予定)。
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第一期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
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