今村祥子『統治理念と暴力-独立インドネシアの国家と社会』東京大学出版会、2024年1月31日、292+xvi頁、7400円+税、ISBN978-4-13-036288-7
本書は、つぎの文章ではじまる。「インドネシアで三十余年にわたり大統領の座に座り独裁的支配を築き上げた第二代大統領スハルト(Soeharto)が、経済破綻と各地での大規模な抗議デモ、さらには主要都市での暴動発生という混乱の中で退陣したのは、一九九八年五月のことである。独裁者の退場と民主化の始まりからすでに四半世紀が経過し、現在のインドネシアでは制度としての民主主義が定着している。だが他方で、二〇〇〇年代半ばより、民主主義の欠陥や民主主義の後退を指摘する研究が増えてきた。実際、民主主義に対する市民の支持は高い一方で、国家権力から個々人の自由を守ろうとするリベラリズムを拒絶し、強いリーダーシップのもとで国家全体の利益を尊重しようとする主張が、無視しえない支持を集めているのも事実である。このような非自由主義的な主張は、あたかもスハルト体制から引き継がれたかのように見える」。
この記述は、1971年生まれの著者が20代から四半世紀余にわたって見続けてきたインドネシアの風景である。つづけて、つぎのように問いかけている。「民主化の帰結として、なぜこのような状況が生まれているのか。この問いへの答えを探るには、スハルトの統治に今一度立ち返り、考察する必要がある。スハルト体制はどのような国家・社会関係を目指し、いかなる統治手法でそれを実現しようとしたのか。さらにはこの体制がどのような壊れ方をして民主化に至ったか。これらの問題を究明することは、インドネシアの現在を理解する上で避けて通れないものである」。
そして、つぎの2点に着目し、本書の主張を述べる。「第一にインドネシア独立より一貫して維持されてきた、調和を尊ぶ国家原則パンチャシラ、第二にスハルト体制下における国家による無法の暴力、とりわけ民衆の暴力性を敢えて利用した暴力のあり方である。この一見異質にも見える二つの要素が、実のところ深く結びつき、スハルト体制における統治の特徴をなしていたとするのが本書の主張である」。
本書は、はしがき、全6章、終章などからなる。第一章「無法の暴力が支える調和」では、「はしがき」でまとめられたことをくり返しながら、本書の「序章」の役割を果たす。第二章「パンチャシラ-変動する体制、変わらない国家原則-」では、「スカルノが生み出した、包摂を目指すパンチャシラが、いかなる変遷をたどって、スハルト体制のパンチャシラ、すなわち敵の排除を正当化する根拠としてのパンチャシラへと変貌していったかを考察する。両者ともにリベラリズムの拒絶という点では連続性がある一方で、スハルト体制のパンチャシラは、イデオロギーへの強い警戒、さらにはイデオロギーが動員しうる民衆の力への脅威観と結びついていた」。
「第三章から第六章は、スハルト体制下で苛烈な国家の暴力が行使された事例を四つ検討する」。第三章「九・三○事件」で「取り上げるのは、スハルト体制の誕生の契機となった一九六五年九・三○事件の直後に各地で発生した、「共産主義者」に対する大虐殺である。九・三○事件は、スハルト体制が貫いた反共政策を正当化する揺るぎない根拠として位置づけられた。同時に、事件に引き続いて起こった大虐殺は、ひとたび「共産主義者」と見なされればどのような事態が待っているか、国民に見せつけることにもなった。この大弾圧に見られる暴力は、陸軍が主導した点において、狭い意味での国家の暴力でもあった。だが他方で、民間人もまた暴力の担い手として不可欠の役割を担った」。
第四章「タンジュンプリオク事件」では、「すでに共産主義勢力を殲滅したスハルト体制が、次なる脅威として認識したイスラーム勢力に対する暴力的弾圧、タンジュンプリオク事件を取り上げる。ここで標的とされたのはイスラーム勢力の中でも、とりわけスハルト体制のパンチャシラ政策に抵抗していた勢力であった。この事件が共産主義者への弾圧と明白に異なるのは、標的がイスラーム勢力であるがゆえに、虐殺を行うために正当化が必要だという事実であった。そこで利用されたのが、理念上の民衆の暴力性だった。デモ行進を行っていたムスリムたちは「暴徒」と位置づけられ、虐殺され、パンチャシラ政策に反対していた勢力の一斉弾圧の根拠として利用された」。
第五章「「謎の銃殺」事件」で「検討するのは、一九八〇年代前半に数千人のゴロツキが超法規的に殺害された「謎の銃殺」事件である。この事件は市民の安全を守るための超法規的な犯罪掃討作戦であったと同時に、この作戦の標的の中には、それまで諜報機関のもとで工作員として利用され、民衆の暴力を扇動し、引き出す任務を負ってきたゴロツキ勢力が含まれていた。市民の多くは、次々発見される遺体に衝撃を受けつつも、「われわれ」の生活を脅かす犯罪者を国家が法にも縛られない圧倒的な力で倒していると理解し、無法の暴力を概して歓迎したばかりか、時としてリンチによって暴力に加担した」。
第六章「一九九八年五月暴動-体制崩壊と残された分断-」で「取り上げる一九九八年五月暴動は、民衆の怒りの暴動であったと同時に、国家の暴力そのものであった。このように両義的な五月暴動とともにスハルト体制が終焉したことの意味は何だったのか」。
終章「統治理念と暴力」では、「本書の議論をまとめるとともに、五月暴動とともに実現した民主化が、その後のインドネシアにどのような遺産を残したのかを考察する」。そして、著者は、つぎのように結論している。「独裁者が去り、自由な選挙が定期的に実施されるようになった現在、スハルト体制期のように国家権力がパンチャシラを利用して自在に敵を定義し、その弾圧のために民衆の暴力を大規模に動員する可能性は、確実に小さくなったと言える。他方で、そのような統治を支えていた要素が消え去ったとは言いがたい」とし、「以下、三点に整理して」いる。「第一にスハルト体制下での暴力事件に関する清算の行方、第二にプラボヴォ・スビアントの復権に見るスハルト体制との連続性、第三にパンチャシラをめぐるスハルトの遺産である」。
第一にたいして、著者は「国軍改革が実現した一方で、スハルト体制期の人権侵害事件について、真相究明と責任追及は民主化後も実現していないという事実は、国軍がいまだに正義の実現を阻む力を維持していることを示している」、第二にたいしては「民衆の力を国軍が動員することに歴史的な正当性があるという、ナスティオンに始まりスハルト体制期に強化された論理が、変わらず維持されているように見える」、第三にたいしては「民主化後もインドネシアにおける絶対不可侵の国家原則であり続けている」と答えている。
本書で取りあげた「国家による無法の暴力」は、インドネシアに限ったことではない。フィリピンのドゥテルテ政権期(2016-22年)の「麻薬戦争」など、東南アジア各国で見られる。アセアン(東南アジア諸国連合)では、加盟国の内政に干渉しない内政不干渉原則を重視していることから議題としないできた。本書で何度も言及されたように、各国には近代の制度が及ばない固有の価値観に基づく規範があるからであり、インドネシアでは「パンチャシラ」に集約されている。そして、軍が力を持っている限り、暴力をともなう。プラボヴォの復権も、フィリピンでマルコス・ジュニアが大統領になったことと通じるものがあるのか。民主化勢力が打倒したはずのものが、なぜ復活するのか。近隣諸国とともに考えることで道が開けるかもしれない。アセアンもいつまでも内政不干渉を理由に、なにもしないわけにはいかないだろう。
蛇足だが、冒頭の1行に「座」が2度、「大統領」が2度出てくる。すっきりしないと思いながら読みはじめたら、全体を通して繰り返しの多いことが気になった。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
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