渡辺延志『関東大震災「虐殺否定」の真相-ハーバード大学教授の論拠を検証する』ちくま新書、2021年8月10日、233頁、820円+税、ISBN978-4-480-07419-5
ハーバード大学教授が、「学術的には論争になりえない領域」と考えられていた「関東大震災における朝鮮人虐殺はなかった/少なかった」「正当な自衛行為だった」という「虐殺否定」論を書いて、ケンブリッジ大学出版局刊行の書籍に収録される」という、そんな情報が著者に寄せられた。「主張の根拠とされているのは当時の日本の新聞だった。震災直後の混乱のなかで紙面に躍ったフェイクニュース」だった。フェイクニュースは「なぜ、どのように生まれたのか。長年新聞社に勤めた著者が、報道の責任を総括する」必要を感じた。
著者が手に入れたマーク・ラムザイヤー教授の論文は、「日本語にすると「警察の民営化:日本の警察、朝鮮人虐殺、そして民間警備会社」がタイトルである。二〇一九年六月と執筆の日付があり、インターネット上の学術論文サイトで公開されていた。A4判で二七ページあり、表紙や要旨、附表、参考文献を除くと本文部分は一七ページである。表紙には「HARVARD」の文字がひときわ大きく掲げられ、「ケンブリッジ・ハンドブックで刊行予定」と記されていた」。ケンブリッジ・ハンドブックは、学生にも論文執筆前に目を通すよう薦めているシリーズである。
「「慰安婦は契約による売春婦だった」という趣旨の論文を発表したとして物議を醸していた」教授が、今度は「大震災の混乱の中、朝鮮人を虐殺した日本人の自警団は、機能を失った社会における警察民営化の一例だったとの考えを示すものだという。そして、虐殺の原因となった「朝鮮人が放火した」「井戸に毒を投げ入れた」などの流言は実体のない嘘ではなかったとしたうえで、殺された朝鮮人の数はこれまで語られてきたほどには多くはないと主張する内容」だった。
「論文の構造はすぐに分かった。主張の大きな論拠となっているのは当時の新聞記事なのだ。「この記事に朝鮮人の犯罪が書かれている」「同じような記事は全国にあふれている」と指摘し、独自の主張を展開しているのだ」。著者は、この「論文を検討するために、かなりの量の新聞記事を集めて読むことになった。それなりに当時の事情を知っているつもりだったのだが、その作業を通して思い知ったのは、知らなかった事実や事情のあまりに多いことだった。流言とはどのようなものか。虐殺とはどのような事態だったのか。当時の記憶や経験が日本社会に伝わっていないことをあらためて痛感した」。「流言とはフェイクニュースだったのだ。それを報じた新聞もフェイクニュースだった。何よりも、政府の処理そのものがフェイクニュースだったのだ」。
この論文は、当然のことながら韓国から激しい非難が起こった。日本でも、具体的にこれまでの研究や原資料を示して批判した。その結果、論文は改訂され、「A4の用紙で一二ページと分量は半減し、タイトルは「警察の民営化/日本の事例から」に変わっていた。関東大震災についての記述は「一九二〇年代の日本」という半ページほどのセクションに押し込まれ、朝鮮人虐殺についてはわずか四行」になった。
ハンドブックの編集者は、韓国の聯合ニュースのインタビューに、つぎのように答えた。「数多く届いた疑問のリストを添えて論文の再考を求めたところ、ラムザイヤー教授が書き直すことに応じた」。「「とても不運な間違いだった」「日本が朝鮮半島を支配した時期の歴史に、私たちよりもラムザイヤー氏は詳しいものだと思っていた」」。改訂したからといって、執筆者も編集者も責任がなくなったわけではない。研究者としては、みながみな同じことを言えば、一度は疑ってみる必要がある。根拠が同じならば、その根拠を検証してみることは、研究の基本である。「前科」があるだけに、なぜ執筆を依頼したのか、公表する前に原稿を点検しなかったのか、編集者にも出版社にも責任がある。
改訂版が出されたことで、このいわく付きの論文そのものを検証する必要はなくなったが、著者は「虐殺否定」論の正体を突き止め、つぎのようにまとめた。「関東大震災当時の新聞記事を読み進めるうちに、日本社会を揺るがした大混乱の基本的な構図が浮かび上がってきた。自警団などによる朝鮮人の虐殺は流言というフェイクニュースが原因だった。荒唐無稽な流言を信じさせた大きな要因は、「不逞鮮人」と対峙した朝鮮戦線からの帰還兵の抑圧された戦争体験にあったのだろうと思わせるものがあった」。
「日本社会で弱い立場の人たちが兵士として「不逞鮮人」との戦いの前線に送られ過酷な戦いを強いられた。兵役を終えて郷里に戻ると、在郷軍人として管理され、米騒動の反省から警察が自警団を発足させる際に、その核として組み込まれた。そこへ震災が発生し流言が流れた。その内容は朝鮮戦線での体験を思い起こさせるリアリティーがあった。どうにかしなくては、身を守らなくてはとの思いから武器を求め、ためらうことなく朝鮮人を殺したのではなかったのか。震災に遭遇すると自警団には多くの地域住民が参加した。数の上では在郷軍人よりも多かったのだろう。そうした点をとらえ政府は、自警団は震災直後に突然誕生したことにして、責任を押し付けようとしたが反発が強かった」。
「フェイクニュースに振り回されメディアの主役だった新聞は大混乱に陥り、今になって記事を読んだだけでは、何が事実であったのか、なにが原因でそのような事態が引き起こされたのかが見えなくなっていた。同時に、あまりにも残忍であり、そのようなことがあったという事実でさえ、日本社会はいつしか信じられなくなり、信じたくなくなっていた」。
そして、著書は、つぎのように最終章の「第六章 虐殺はなぜ起きたのか」を結んでいる。「「虐殺否定」論の正体とは、曖昧なままの方が快適だという、おそらくは日本社会の姿そのものなのだろう」。「そう思えてならない」。
「集団的な精神異常が引き起こしたハプニング」などでは、かたずけられない社会の問題が、当時もいまも潜んでいる。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
コメント