楊峻懿『海を越える水産知-近代東アジア海域世界を創った人びと』京都大学学術出版会、2024年3月31日、267頁、3800円+税、ISBN978-4-8140-0521-5
現代の黄海をめぐる中国と韓国、南シナ海をめぐる中国とベトナムやフィリピンなど東南アジア諸国との漁業を含む問題は、戦前の日本の侵漁と深くかかわりあっている、地域としての問題である。にもかかわらず、日本以外の研究はほとんどなく、日本の研究も漁民に視点をおいたものは少ない。地域として総合的に研究できるような状況になく、かろうじて日本側の資料が使える程度で、中国にかんしても日本側の資料を使わざるを得ない。本書は、はじめて日本側の資料を本格的に使った中国の漁村から見た「近代東アジア海域世界」である。
本書の目的は、序章「日本における近代的「水産知」の蓄積と中国」「二 中国における水産教育の始まり」の最後に、つぎのように書かれている。「本書では、中国が清末から中華人民共和国が成立するまでの各時期において何を克服すべき課題として、いかに次世代の水産人材を育成し引き継いでいったのか、それが中国水産業の近代化にどのような影響を及ぼしたのかなど、近現代中国における近代的な「水産知」の獲得と発展について、主に中国と日本との関わりに焦点を据えながら捉え直し、日中関係史のなかに位置づけることを目的とする」。
本書のキーワードは聞き慣れない「水産知」である。著者は、序章で「「水産知」とは」という見出しを設け、つぎのように説明している。「明治日本の農商務省水産講習所において展開された水産教育は、明確に定められた学制、授業科目などを通して、漁撈・製造・養殖に関する専門的な漁業知識として中国にも伝授されていくことになった。それは単に水産先進国であったノルウェーをはじめとするヨーロッパ諸国の知識の受け売りではなく、新たに日本で再構築しなおされた、まさに日本独自の「学知」とも呼べるものであった。そこには水産に関わる知識だけでなく技術や生活スタイルなども含まれていた。本書では、かかる農商務省水産講習所で明確に定められたカリキュラムのもと、中国に伝授された水産に関する近代的な「学知」を「水産知」と呼ぶことにしたい」。
本書は、序章、全5章、終章などからなる。「本書の構成」は、序章の最後でまとめられている。まず概略的につぎのようにまとめてから、章ごとに概要を紹介している。「第一章と第二章は清末民国期の水産学校の教育状況の分析にあてる。第三章と第四章では、そこで育成された水産人材がいかなる活動を展開したかを明らかにする。第五章では、戦後の水産事業の復興およびそこで認識された課題について取り上げる」。
第一章「清末民国期の水産教育と直隷水産講習所」は、「中国における最初の水産学校である直隷水産講習所を取り上げ、清末に多くの知識人・実業家が日本を視察し日本の水産教育・水産事業の発展を目の当たりにしたのち、日本を模倣し、中国の水産教育を起こした。この萌芽段階の水産教育の様子を検討する」。
第二章「民国初期における江蘇省立水産学校の人材育成への模索」は、「南方の上海に所在する江蘇省立水産学校を取り上げ、水産人材の育成状況を考察する。直隷水産講習所が直接日本から教員を招いたのとは異なり、江蘇省立水産学校が創設される際には、まず学生を日本に派遣し、彼らの帰国を待った。その後、優秀な卒業生を日本の水産教育機関に派遣し研究させることも行なった」。
第三章「一九三〇年代江蘇省の海賊問題に対する政府の対応と漁民武装自衛-『江蘇省沿海漁業保護会議記録』を中心に」は、「一九三〇年代前後の中国人の海賊問題を俎上に乗せる。各世代の水産人材は卒業後、水産教育機関だけではなく、政府機関においても重要な職位を担い、水産界の指導層となった。彼らはそこまで関心が払われてこなかった漁民問題に初めて着目した。この時期、少なからぬ漁民が生活困難に直面し、秩序が崩壊され、最終的には海賊になりはて、政府の注目を集めるにいたっていた」。
第四章「一九三〇年代の中国における水産教育の変遷-水産学校教育から漁民教育への試み」は、「水産人材による漁民救済・漁民教育といった問題への認識を分析する。海賊などの影響を受けた漁村が破壊的な状況に陥っていたなか、江蘇省政府や水産人材は漁民の生活に配慮するようになり、漁業秩序の危機的状況の回復、漁民の救済、生業としての漁業の重視を喚起しようとする様々な活動を展開しつつあった」。
第五章「一九四五年以降の中国における水産事業の復興と漁民救済-一九四五~一九四九年を中心に」は、「一九四五~四九年における、戦前に育成された水産人材の活動、中国の水産業・水産教育の復興状況、およびそこに内包された課題について考察を進める」。「課題の一つとして漁業救済物資の分配機関である漁業善後物資管理処を取り上げ」る。
終章「近代東アジアにおける水産人材の流動と「水産知」の伝播」では、これまでの議論を整理したうえで、今後に残された課題、特にほとんど手つかずで残された現代中国の漁業問題について若干のポイントを挙げながら、今後の見通しについて」語る。
終章では、まず本書で明らかになったことを、つぎのように4点にまとめている。「第一に、中国水産教育の嚆矢と発展は日本と密接な関係があったことが明らかとなった」。「これまでほとんど利用されることがなかった史料を分析しながら日本の「水産知」が中国の水産教育に与えた影響を明らかにした」。「清末民国期、日本人や中国人の水産人材の手によって日本の近代的「水産知」が中国へともたらされ、沿海各省に水産学校を相次いで成立させた」。
「第二に、清末から一九二〇年代にかけて水産学校で行われた水産教育は、漁業の現場で活動していた漁民に水産知識を伝授することができなかった。漁民と水産学校の間に水産知識を流動させる媒介が存在せず、水産学校で教えられた水産知識と、漁民が使用していた伝統的な漁業知識・技術とが互いに並行したままで融合することはなかった。日本の水産教育システムを模倣し、沿海各省に水産学校が創設されたものの、人材育成の面においては決してうまくいっているとはいえなかった。直隷水産学校や江蘇省立水産学校の卒業生の出身家庭を見ると、家族が商業や教育に従事するものが半分以上を占めている。卒業生は漁民の子弟ではなかったといっても過言ではない。また、水産学校の卒業生の進路を見ると、水産業に従事した学生の数はそれほど多くない」。
「第三に、水産知識が日本から伝播したのは確かであるが、その伝播の時期によって漁業知識・技術の伝授や定着に異なる点が生じたことは容易に想像できる。清末から一九二〇年代にかけて、水産教育は水産学校における教育に限られていた。三〇年代に入ると、水産人材は漁民向けの水産知識の伝授を試みるようになった」。「しかし、結果から見れば、漁民生活の改善にはほとんど役に立たなかったといってもよい。当時の政府の財政的な問題、戦争などの不安定な政治的・社会的環境、漁民の政府への不信感など、多様な理由から文字すら読めない漁民に近代的「水産知」を伝授するのは容易ではなかった。また日中全面戦争が勃発すると、萌芽したばかりの事業はすべて停頓状態へと陥った」。
「第四に、民国期における水産人材の海洋観にも注目したい。江蘇省立水産学校は創設初期に日本を模倣し、漁撈科と製造科しか設置しなかった。しかし一九二六年に、遠洋漁業科も設置し、学生を募集して人材を育成しようとした」。「しかし一九二九年に遠洋漁業科は廃止された。その後ほぼ六〇年間にわたって、中国の遠洋漁業は停滞した」。
終章では、つぎに「二 日本統治期の朝鮮・台湾における水産学校と水産教育」を概観し、「三 近代東アジアにおける漁業の発展と紛争」へとつなげ、つぎのように「今後の課題を展望」している。「一九四五年以前、中国は日本の「水産知」の影響を受け、四五年以降の戦後の復興期には欧米の漁業知識や技術を中国に導入した。一方、新中国建国後、水産教育は制度上ソ連のものを模倣するようになったが、五七年に日本人の教員である真道重明が中国を視察し、上海海洋学院で講義を行った。では、四九年以降の中国の水産教育の制度はどのように構築され、現在の海洋学科の構築にどのような影響を与えたのであろうか。中華人民共和国成立後の漁業・水産業の復興と発展は、現代史を考えるうえで重要な論点となる」。
「一方、台湾では四五年以降、国民党の遷台に伴って大陸で育成された多くの水産人材が台湾へと赴き、水産業の復興や水産教育を推進し、また同じ時期には少なからぬ日本の水産人材が国民党政府によって留用された。その後の台湾における水産教育システムの構築もやはり重要な検討課題といえよう」。
「このように中国大陸・台湾だけではなく、韓国をも含めた東アジア各国において戦前に育成された水産人材が、四五年以降の水産教育においていかなる役割を果たしたのか、彼らによる各国の水産教育はどのように再興され発展したのか。かかる一連の過程については、戦後東アジアの水産業を考えるうえで極めて重要な問題であるにもかかわらず、これまでほとんど研究がなされず、今後の研究に俟つ部分が多いのである」。
水産資源や環境問題を含め、日本を含む東アジアの問題として考えるとき、歴史的には日本側の資料が不可欠である。日本、中国本土、台湾、韓国、北朝鮮、それぞれの「水産知」を結集して取り組むべき課題である。日本側は資料を整理して利用しやすいようにすること、戦前に日本の「水産知」の影響を受けた国や地域は本書のようにそれぞれの「水産知」を持ち寄ることによって、地域としての問題に取り組むことができる。著者が指摘するように「課題」はある。東アジアの海を紛争の海ではなく、コモンズの海にするためにも、地域としての「水産知」が試される。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
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