植田展大『「大衆魚」の誕生-戦間期における水産物産業の形成と展開』東京大学出版会、2024年2月26日、240頁、ISBN978-4-13-046141-2
日本人が古くから魚を食べてきたことは、海に囲まれ急峻な地形で河川が発達していたことから容易に想像がつく。しかし、それが自給自足で獲れたときだけでなく、日常生活のなかに入ってくるのは、都市が形成され消費社会が出現してからになる。日本では、北陸の鯖を京に運ぶ鯖街道など、遠距離輸送も前近代からおこなわれていた。
著者は、1969年に放映がはじまった「サザエさん」のオープニング・テーマソングに鮮魚店から魚を盗む猫が出てきて、すでに魚が日常の食材になっていたことから議論をはじめている。そこには、日常的に安定して供給される「大衆魚」の存在があった。
本書の目的は、序章「本書の目的とアプローチ」のなかに何度も出てくる。その最後は、つぎの文章で終わっている。「本書では戦間期の大都市で成立した日常生活に水産物を食べる消費生活と、大手水産会社や地理的条件に恵まれた他地域と競合しながら形成された水産食品生産地域の双方を分析し、その相互作用のなかで「大衆魚」が誕生していくメカニズムを明らかにしたい」。
本書のキーワードのひとつは、「大衆魚」である。著者は、「高度成長期に連なるような戦間期の消費生活のなかで購入されていた水産物を、「大衆魚」と定義したい」とし、「一般的に明確な定義をせずにイワシやアジ、サバ、サンマなどの多獲性魚種の総称として用いることが多い」としている。
本書は、序章、2部全5章、終章、などからなり、序章最後の「3.本書の分析の特徴と構成」で、まずつぎのように概略を述べている。「本書では大都市の新たな水産物需要の実態を第1部の第1章、第2章で検討し、その上で第Ⅱ部の第3章、第4章、第5章では、消費の変化を前提に魚種の選択や漁場の利用方法の変更、動力船・冷蔵庫などの新技術の導入、製品の品質改善・新製品開発などを行いながら展開した北海道・樺太の生産地域の対応を確認する」。
その後、各章毎に説明しているが、終章「「大衆魚」の誕生とは」の「1.本書の内容」のほうが、より詳しく、成果を加えてまとめている。まず、全体をつぎのようにまとめている。「本書は消費地における需要の変化と、中小漁業・水産加工業経営を主体とした北海道・樺太の供給側の対応を一貫して把握することで、戦後の大衆消費社会の原型となる消費生活、すなわち「大衆魚」の誕生が両者の相互関係のなかで形成されてきたことを明らかにしてきた。北海道のような遠隔地の水産物の生産に関わる地域は、産業構造を変えながら、大都市の消費生活の変化に対応した水産食品生産地域を形成していった」。
第1部「変わる大都市の水産物需要」では、「大都市・東京を中心に、新たな水産物需要の特質を2つの章で分析した。まず、大都市で水産物の需要が1910年代以降に拡大していたことを確認し、大都市の水産物供給の仕組みを明らかにすると同時に、「家計調査」を用いたミクロレベルの消費生活の実態に迫った。次に、東京に設置された北海道水産会の販売斡旋所の活動実態から、大都市の消費生活の変化を水産団体がどのように把握し、情報の非対称性の克服に向けてどのような役割を果たしたのかを確認した」。
第1章「大都市における新たな水産物需要の拡大-1910年代以降の東京市の消費動向を中心に」では、「1910年代以降、日本の水産物消費が増加傾向にあり、昭和恐慌期においても根強い水産物消費があったことを指摘した。その上で農村・都市で水産物の消費量に明確な違いがあり、大都市で水産物消費の著しい増加がみられることを「家計調査」や各種統計を用いて説明した」。
第2章「大都市市場に対応する遠隔生産地域-北海道水産会の東京での活動を中心に」では、「北海道の水産業関係者が組織する北海道水産会の東京での活動に着目し、消費生活の変化を供給側である地域がどのように把握していたのかを確認し、その役割についても評価した」。
第Ⅱ部「新たな需要に対応する生産地域」では、「大都市の需要の変化を踏まえ、戦間期に供給地として存在感を増す北海道の水産食品生産地域の形成・展開過程を、樺太との関係を示しながら分析した。農村地域向けに魚肥や塩乾魚を主として供給してきた北海道では、第1次大戦期以降、整備された流通網を生かしながら、従来と比べて鮮度や味に優れた製品を供給していくことで、新たな需要を捉えた水産食品生産地域の形成が進んだ」。
第3章「漁場利用の積極的変容と生産地域の再編-余市のニシン定置漁業を事例として」では、「北海道の日本海側に位置する余市を事例に、在来の貯蔵性に優れた本乾身欠ニシンから、味や鮮度に重点を置いた半乾物や鮮魚に近い生身欠ニシンへの転換を進めて水産食品生産地域が形成されていく過程を明らかにした」。
第4章「水揚物の効率的活用と水産食品生産地域の展開-岩内のタラコ取引とスケソ製品を事例として」は、「「ニシンの余市」とともに「スケソウダラの岩内」と称された、岩内における水産食品生産地域の形成・展開過程を、製品構成の変化や漁船の所有関係に着目して分析した。岩内では第1次大戦期以降のタラコ需要の拡大に伴って、スケソウダラの漁獲を目的とした動力船漁業が展開したものの、動力船の参入が相次ぐなかで、操業の継続が困難となる経営が増加して漁場の利用調整は必要となった。水産加工業を兼業した動力船の船主が主導して漁場の利用調整を協調して行うと同時に、タラコの品質改善や共同購買事業を強化し、地場の水揚物を効率的に活用しながら事業の存続を目指すための再編が進んだ」。
第5章「条件不利地における需要への対応とその限界-樺太におけるニシン漁業を事例として」では、「水産食品生産地域の原料供給地として再編される樺太のニシン漁業の実態を分析している。北海道以上に地理的な条件不利地であり、同時に労働力の確保も困難であった樺太は、余市や岩内のような水産食品生産地域への再編が進まず、水産食品生産地域向けの加工原料供給地域に組み込まれていった」。
以上を総括して、つぎのように「1.本書の内容」を結んでいる。「本書では戦間期の大都市消費地市場と生産地域との有機的なつながりのなかで把握してきた。分析を通じて、戦間期の大都市で生まれた新たな消費生活への対応が、水産食品生産地域の独自の発展を可能にし、その相互作用のなかで「大衆魚」が誕生してきたことを明らかにした」。
そして、終章をつぎのパラグラフで終えている。「本書は「大衆魚」の誕生という分析視覚をとることで、水産物を日常的に消費する新たな生活の実態を明らかにし、後に連なる大衆消費社会の萌芽的な形成が戦間期にみられることを確認してきた。「大衆魚」の誕生は、地域の主体的な対応を伴いながら、現在も地域経済を支える水産食品生産地域が形成されていく過程でもあった。一方、同時にそれは消費の論理によって必要な水産物を安定的に調達していく、食のグローバル化に連なる変化であったとみることもできるだろう。本書は供給側の対応として北海道・樺太という限定された地域の事例から、その一端を明らかにしたに過ぎない。「大衆魚」の誕生という枠組みを他の生産地域にもあてはめ、さらなる精緻化を図る作業は今後の課題としたい」。
本書は、東京市場と遠隔生産地域として北海道・樺太を事例に、「大衆魚」の誕生という社会史研究にとって重要なテーマを扱っている。これを、西日本を事例にすると、もっと違った分析になっただろう。北海道・樺太は、日本の外縁ではあるが「国内」である。いっぽう、西日本の「大衆魚」の誕生は、植民地であった朝鮮や台湾と密接に結びついており、さらに中国沿岸への侵漁を無視するわけにはいかない。帝国日本の姿が現れてくる。消費と生産の、さらに向こうをみる必要がでてくる。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
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