柴田幹夫『大谷光瑞の研究-アジア広域における諸活動』勉誠出版、2014年5月30日、365+7頁、4500円+税、ISBN978-4-585-22080-0

 1914-41年にシンガポールで発行された『南洋日日新聞』を、最初から読んでいると、大谷光瑞の記事に出くわした。本願寺・浄土真宗本願寺派第22世法主であった大谷光瑞(1876-1948)は、大谷探検隊(1902-14年)を率いたことで知っていたが、はじめ往復の途次にシンガポールに寄港したのだろうくらいにしか思っていなかった。ところが、ゴム栽培など開発にも関心があり、実際に投資していたことがわかってきた。もっと知りたいと思って探した学術書が、本書である。

 「大谷探検隊」の研究は以前から進んでいたが、大谷光瑞その人の研究はあまりなかったようだ。それが、没後50年を契機として注目されるようになった。「従来の「大谷探検隊」一辺倒の研究ではなくて、アジアの中で、あるいは日本国内で大谷光瑞をいかに位置づけるかという研究である。いわば歴史的存在としての大谷光瑞の研究が始まったといえよう」。

 本書は、序章、3部全10章、終章、付録からなる。1999年から2012年に出版された論考をまとめて博士論文とし、受理されたものを、加筆修正して出版されたものである。章ごとの要約は、終章でおこなわれている。「本書第一部第一章から第六章においては、大谷光瑞のアジア諸地域における活動と展開について述べ、さらに第二部第一章から第二章では、大谷光瑞の中国認識について述べてきた。第三部においては、大谷光瑞の周辺の人々ということで、水野梅暁と中島裁之を取り上げた」。

 「第一部第一章「大谷光瑞とロシア-ウラジオストク本願寺」をめぐっては、ウラジオストク本願寺について、敷地問題と布教場建設を軸にして、論を展開したわけであるが、その過程で、太田覚眠の奮闘と大谷光瑞の外務大臣への「上申書」提出などという興味深い問題が明らかとなった」。

 「第二章「大谷光瑞と満洲」は、大連本願寺関東別院の創設から活動まで詳細に紹介し、また光瑞の満洲観を述べたものである。関東別院の発展については、二つの方向から考える必要があろう。一つは、日露戦争期の軍事行動との関係であり、他方、関東別院内に創設した「仏教青年会」、「仏教婦人会」や「幼稚園」などの教育機関が、大連日本人社会の中で欠くことのできない存在として認知され、発展していったことである」。

 「第三章「大谷光瑞と上海」は、光瑞は「上海」を世界有数の都市であり、中国の中心点と考えていた」。「また魔都と呼ばれた上海で「ハウスボート」「無憂園」そして「本願寺上海別院」などで様々な階層の人たちと出会い、交流することによって、本願寺の存在を不動のものにした」。

 「第四章「大谷光瑞と漢口」は、光瑞にとって漢口は、「国家の前途」を考える場所であり、また「国家の近代化を学ぶ」ところでもあった。時の実力者張之洞に関心を寄せ、製鉄所、教育機関などを視察したのは、そのためであった」。

 「第五章「大谷光瑞と台湾-「逍遙園」を中心にして」は、台湾高雄に現存する「逍遙園」について、大谷光瑞、本願寺の台湾開教などと相関させて論じた」。「光瑞は、台湾を「如意宝珠」の島と呼び、産業開発を中心にして、政策を開陳したり、また自ら産業を興したりもしていた」。

 「第六章「大谷光瑞とシンガポール本願寺」は、海外開教(とくにアジア開教)は、明治以降、日本の対外膨張政策にともなって積極的に行われ、軍部の海外進出と軌を一にしている場合が多く、また軍部の海外進出の先鞭役を果たしているものも少なくないことを明らかにした」。

 「第二部は、大谷光瑞が中国をどのように認識していたかということを論じたものである」。「第一章「辛亥革命と大谷光瑞」は、辛亥革命期に遭遇した日本の一仏教教団・本願寺とその法主大谷光瑞は、教団という特異な存在形態を背景として辛亥革命・官革両勢力と関わったことを明らかにした」。

 「第二章「大谷光瑞と『支那論』の系譜」は、竹越与三郎、山路愛山の『支那論』から大谷光瑞、内藤湖南の『支那論』を概括したが、ここで明らかになったのは、竹越、山路は中国の地を履むことなく、ある種観念的な物言いで、中国を論じていたが、光瑞は、中国で生活した体験から、現実を注視すべきだと考え、著したのが『支那論』であった」。

 「第三部は、大谷光瑞と周辺の人々を取り上げ、具体的には水野梅暁と中島裁之に注目した。第一章「水野梅暁と日満文化協会」は、大谷光瑞の中国におけるある種指南役であった水野梅暁について記した論文である」。

 「第二章「『萬里獨行紀』と中島裁之」は、中国で初めて本格的な日本語学校(「北京東文学堂」)を建設した中島裁之に注目した論文であるが、中島は、一八九九年の大谷光瑞の「清国巡遊」に随行した人物であり、又四川成都や北京において日本語学校を創設するなど中国通でもあった」。

 そして、つぎのようにまとめて、結論としている。「大谷光瑞は、明治維新の激動期に本願寺の一連の改革を成し遂げた父大谷光尊(明如上人)の影響を受け、開明にして進取の精神を受け継いだ。一八九九(明治三十二)年、初めての清国外遊は光瑞をして「国家の前途」を充分に考えせしめた。独り本願寺だけの資力を以て「大谷探検隊」(アジア広域調査活動)を組織したのも「国家の前途」を考え「日本の天職」を明らかにするためであった。「仏子にして、アジア人」であった時代は、精神的に中国に関わり、「大谷探検隊」は言うに及ばず、孫文たちへの支援運動を軸にして活動を行っていたが、「対華二十一ヶ条要求」、それに「五・四運動」を経て中国の政治状況は、軍閥・匪賊が支配するようになり、安心して生活できる場所ではなくなった。そこで南洋にひとまず退散する形をとり、中国から距離を置くようになる。南洋では、「ゴム園」、「コーヒー農園」、「香料の栽培」など「産業振興」に力を注ぎ、「実業家」としての一面を持つことになる。その後、「内閣参議」や「大東亜審議会」委員、「内閣顧問」等を歴任する中で「帝国の相談役」となった。海外生活に終止符を打ち、日本(東京築地本願寺)で生活するようになった。ただ戦局が激しさを増した一九四五(昭和二十)年六月には、大連に渡った。当地で日本の敗戦を迎えたのである。「骨は中国大陸に撒いてほしい」と語った時期である」。

 「本研究では、大谷光瑞が常に「国家の前途」について考えていたことを具体的に明らかにした。それはまた「アジア主義者」としての一面でもある。仏教を紐帯としてアジア各地を一つにしようとしたのではあるまいか。このことは今後の検証に委ねたい」。

 海外在住日本人社会にあって、宗教家の存在は軽視できない。心のよりどころにしたことはもちろんだが、教育や文化活動にも大きな役割を果たした。だが、なかには「生臭坊主」もいたようで、娼館に入り浸っていたような者はゴシップの的になった。東アジアからインド・ヨーロッパへの寄港地で、周辺でフロンティア開発が進んでいたシンガポールでは、娼館が発達していただけでなく、早くから新聞や雑誌が発行されていた。そんななかにあって、法主大谷光瑞にも関心が向けられ、しばしば報道された。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。