柴田直治『ルポ フィリピンの民主主義-ピープルパワー革命からの40年』岩波新書、2024年9月20日、251頁、1000円+税、ISBN978-4-00-432032-6
独裁者の息子が、大統領になった。選挙で選んだフィリピン人の意思を尊重したいが、わからない。フィリピンの「民主主義」とは、どのようなものなのか。その疑問に答えてくれると思い、本書を開いた。
表紙カバーの見返しに、つぎのようにまとめてある。「アジアや東欧の民主化の先駆けとなったピープルパワー革命から約40年。国を追われた独裁者の息子が大統領に当選し、父の戒厳令下で行われた人権侵害や蓄財の記憶が消されようとしている。SNSが偽情報を拡散し、伝統メディアが衰退する今、フィリピンの民主主義の姿とは。長年の現地取材をもとに描く渾身のルポ」。
本書は、序章、全9章、あとがきなどからなる。時系列にシニアからジュニア(ボンボン)まで歴代大統領の統治を追い、最後の第9章で東南アジアのなかでボンボンの登場を理解する。
序章は、つぎのパラグラフで終えている。「本書では、この間に見聞きした彼らの姿と盛衰を追いながら、フィリピンの政治・社会の現状と課題について、現場を踏まえた検証を試みる。同時に報道の自由や世襲、SNSが選挙に及ぼす影響といった、日本の民主主義にとっても重要なテーマについて分析する。近年、権威主義への回帰が目立つアジアのなかで、フィリピンがどのように位置づけられるかといった点についても考察を進めたい」。
フィリピンに限らず、地元の人びとの感覚がなければ理解し得ないことが多々ある。カトリック教徒の多いフィリピンでは、教父・教子など疑似親族関係が発達していて、その関係は表には出てこないが、地元の人びとは常識として知っている。フィリピンの空港に降り立ち、タクシーの運転手と世間話するだけで、謎が解けることがある。本書で、インタビューやSNSを重視するのは、そのような背景があるからだろう。
その数々の謎の答えについて、各章の見出しから拾ってみよう。序章では、「交わることのない被害者と支援者」。第1章「フィリピンの「発見」から独立、独裁まで」では、「殺人事件で無罪を勝ち取ったシニア」「利益誘導で培った忠誠」。第2章「エドサ政変からふたつめのアキノ政権まで」では、「高支持率下で蓄積したフラストレーション」。
第3章「ドゥテルテの登場と麻薬撲滅戦争」では、「治安の改善が支える「戦争」への支持」「警察、税関、刑務所が麻薬汚染の震源地」「無法がまかり通る収容施設」「矯正局長がジャーナリスト殺害を指示」「コインの表裏の美徳と悪徳」。第4章「政敵排除と報道の抑圧」では、「脆弱な「司法の独立」」「人権委員会の予算を一〇〇ペソに」「機能しない政党」「最大放送局の免許はく奪と免許の行き先」「指名手配教祖の宗教団体に放送免許」「伝統メディア攻撃に溜飲を下げる人々」。第5章「史上最高のドゥテルテ人気とその秘密」では、「任期後半でも下がらぬ支持率」「経済では成果上がらず」「「汚職追放」にも疑問符」「父娘そろって派手な政府予算の使いっぷり」「人気の秘密は、アンチ・ポリコレ?」「エリートへの嫌悪に乗じたポピュリスト」「連発するセクハラ発言」「批判する女性には厳しく」。
第6章「ボンボン政権の誕生とソーシャルメディア選挙」では、「マルコス陣営を支えたデジタル・クローニー」「「黄金のシニア時代」という言説」「マラカニアン復帰へ向け周到だったデジタル戦略」「世界一のSNS利用国」「ティックトックが主戦場」。第7章「ピープルパワー神話の終焉と新たな物語の誕生」では、「変わらない貧困と格差」「アジアの発展に取り残されるフィリピン」「奇跡の革命物語の敗北」。第8章「歴史修正と政権交代の意味」では、「「マルコス独裁」を消す指導要領の変更」「巨額相続税の滞納」「消えた祝日・革命記念日」。
第9章「東南アジアで広がる権威主義と民主主義の衰退」では、「民主主義から権威主義までのグラデーション」「後退するアジア太平洋地域の民主主義」「中国の勃興が支える強権」「米国の無関心と衰退、そしてご都合主義」「アジアの病、政治世襲」「アジアに民主主義は根付かなかったのか」。
「あとがき」で、著者は本書執筆のきっかけを、つぎのように述べている。「かつて自分たちの力(ピープルパワー)で独裁者一家を追い出した人々が、それによって得られた選挙の自由をもって一家を再び権力の座に就かせた光景を見て、民主主義とはなにかを考えさせられたことだ。無血の民主革命に酔ったはずのフィリピン人を取り巻く状況はどこでどう変わったのか」。
つづけて、著者はつぎのように述べている。「一連の出来事について、できるだけ事実に照らして経緯を追うように努めた。しかしながらその「事実」を当事者であるフィリピン人に伝えると、強く反発されることも多い。もちろんどのような「事実」を選択するかは私の主観である。彼らの慈しむ物語と私が伝える「事実」の平仄が合わないからだろう」。「ジャーナリズムにとって厳しい時代だ。事実に重きが置かれない状況は、世界的な傾向だが、フィリピンもまたしかりである」。
著者は、フィリピン社会をつぎのように理解している。「職業や学歴、貧富、階層、立場などにかかわらずフィリピン人は概しておしゃべり好きで、外国人に対してもさまざまな話をしてくれる。その自由闊達さが私は好きだ。取材するのも楽しい。しかしここ数年、フィリピン人と政治の話をするのがときに億劫になる。私に限らずフィリピン人同士、家族間でも政治や選挙について話すことを避ける傾向があるという。政治状況を語る共通の基盤が失われているからだろう。基盤を事実の積み重ねと言い換えてもよい」。
そして、つぎのように展望している。「ボンボン政権は二〇二五年には折り返しを迎える。マルコス・ドゥテルテの蜜月が過去のものとなり、二〇二八年の次期大統領選挙へ向けて政局も波乱含みだ。独裁者の息子は権威主義的な傾向を強めるのか、あるいは父の政権末期の反省に立ち、民主的にバトンを後任に引き継ぐのか、予断を許さない」。
結局、疑問は解けなかった。だが、その基盤に、貧富の差があることは歴然としている。富の代表と貧が期待するリーダーのせめぎあいのなかで、ポピュリスムが横行しSNSが力を持った、ということだろうか。民主主義にもいろいろあることはわかるが、フィリピンの民主主義は貧富の差が解消されないかぎり、現実には機能しないだろう。
ドゥテルテ前大統領の娘で、副大統領のサラ・ドゥテルテの人気に陰りが見えるようになった今日、次期大統領候補として放送ジャーナリスト、メディアパーソナリティとして人気を博し、2022年から上院議員を務めているラファエル・テシバ・トゥルフォRafael (Raffy) Teshiba Tulfo(1960- )が浮上してきた。日系二世の母( -2024)をもつ10人兄弟姉妹の半数が著名人になっている。戦後反日感情の強かったフィリピンで、日系人というのもハンディにならないようだ。
フィリピンで現地調査をはじめた1980年代のイメージが、よくも悪しくも、その後のフィリピン観に影響している。それが今日では通用しなくなっていることは、すこしフィリピンに滞在して肌で感じればわかるが、それにかわるものがわからない。グローバル化のなかでわかることもあるが、その受けとめ方はそれぞれの基層社会によって違いがあるだろう。そう考えると、いまの感覚で調査し、従来にない新しさを発見している若手研究者とは違う考察ができるかもしれない。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
早瀬晋三「戦前期日比混血者の「国籍」について」『アジア太平洋討究』第49号(2024年10月)pp.1-17. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/49/0/49_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「『南洋日日新聞』(シンガポール、1914-41年)を読むための覚書」『アジア太平洋討究』第48号(2024年3月)pp.1-66. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/48/0/48_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「消える近代日本・東南アジア関係史研究-アジア史のなかの東南アジアを考える」『史學雜誌』第133編第7号(2024年7月)pp. 43-46.
早瀬晋三[書評]:太田出・川島真・森口(土屋)由香・奈良岡聰智編著『領海・漁業・外交-19~20世紀の海洋への新視点』(晃洋書房、2023年)『社会経済史研究』Vol.90, No.2(2024年8月)pp.160-64.
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