萬代悠『三井大坂両替店-銀行業の先駆け、その技術と挑戦』中公新書、2024年2月25日、270頁、1000円+税、ISBN978-4-12-102792-4
日本近世史は、豊富な史料に支えられ、社会史研究が発展している。だが、史料があれば、研究ができるわけではない。とくに社会史研究は、制度史と関係する「一級」の史料ではなく、普通の人びとの日常を描くため「二級」「三級」の史料をいかに使うかが問われる。よほどの予備知識だけでなく、歴史をみるセンスが必要とされる。本書では、「顧客の信用情報(提供できる担保、年齢、人柄、業種、家計状態など)が書き留められた史料群(「聴合帳」)」を使いこなす。
本書は、プロローグ、全5章、エピローグ、あとがき、などからなる。その概要は、表紙見返しと帯の裏に、つぎのようにまとめられている。「元禄四年(一六九一)に三井高利が開設した三井大坂両替店。当初の業務は江戸幕府に委託された送金だったが、その役得を活かし民間相手の金貸しとして成長する。本書は、三井の膨大な史料から信用調査の技術と法制度を利用した工夫を読み解く。そこからは三井の経営手法のみならず、当時の社会風俗や人々の倫理観がみえてくる。三井はいかにして栄え、日本初の民間銀行創業へと繋げたか。新たな視点で金融史を捉え直す」。
帯の裏には「江戸時代の人々は本当に誠実だったのか?」という問いがあり、「プロローグ」では本書の目的が、つぎのように説明されている。「筆者は江戸時代の日本人が誠実か不誠実か、その割合はどの程度であったかを議論したいのではない。重要なのは、不誠実な顧客がいたなかで、三井大坂両替店は誠実な融資先をどのようにして獲得、拡大したのか、万が一、不誠実を働かれてもどのようにして貸金を回収したのか、という点にある。三井大坂両替店の工夫をこらした技術と、法制度や経済状況に順応した挑戦の解明こそが本書の目的である」。
「エピローグ」では、3つの見出しを設けて、本書の結論としている。まず、「三井銀行へ-連続と断絶」では、つぎのように結んでいる。「近年の研究では、江戸時代から明治時代への、人の系譜的な連続性が強調されることがある」。「ただし、仕事の中身にまで分け入って検討を加えると、大阪御用所のように、江戸時代からの技術や人脈が活かされていなかった事例もあることに注意したい」。
「では、江戸時代のノウハウがまったく活かされなかったかというと、そうとも限らない。明治九年の抵当増額令の危機を回避した三井組であったが、放漫な融資体制を反省したのか、明治一〇年頃には江戸時代の掟書類を倉庫から引っ張りだし、筆写していた。三井銀行大阪分店の場合、数十通に及ぶ掟書類の複製書が現存している。江戸時代の経験を継承する従業員が少なくなった当時、かつての掟書類から、もう一度そのノウハウを再確認しようとしたのではないか。実際、明治一〇年代の三井銀行の業績は改善していた」。
つぎの「大坂両替店の金融業は近代的か?」については、つぎのように答えている。「大坂両替店は、近代的な要素を多分に含んだとはいえ、江戸時代特有の保護のもとに位置した」。「大まかにまとめると、江戸時代の政治・社会体制は、幕府(または准幕府)権力に接近し保護を得た特権的商人や特権的豪農が富を得やすい構造であったといってよい。大坂両替店の金融業も、このような前近代的構造のなかで成り立っていた」。
3つめの「信用調査からみえる社会構造」は、まず、「最後に、金融史と社会史の架橋を試みたい」と述べ、つぎのようにまとめている。「仮に、江戸時代の人びとの多くが誠実に生活を営んでいたとすれば、それは、生来の気質であったという説明のみですべて片づけてよいものではない。むしろ現実的には、低利かつ比較的大口の融資を得るためでもあったことに目を向ける必要がある」。
「そして、これらは、不誠実な人びとに着目することでみえてきた視点である。不誠実な人びとがいたからこそ、大坂両替店のような大手の金貸し業者は、厳しい信用調査を繰り返し、不誠実な顧客を排除しようとしてきた。このような信用調査の実施と審査の諾否は噂になり、顧客には品行方正な言動が求められるという認識も生まれたはずだ。誠実な人びとだけをみていては、なぜ誠実な人びとが存在したのかを十分に明らかにすることはできない」。
そして、「エピローグ」を、つぎのパラグラフで閉じている。「本書で明らかにしたように、とある家族の遊興や不祥事まで、様々なことを隣人や取引先、町役人らが詳細に知っていた。ひとたび重大な不品行や経営悪化が漏れ聞こえれば、その家族は不評のレッテルを貼られ、途端に大坂両替店をはじめとする大手の金貸し業者から融資を得られなくなった。このような監視社会を、果たして皆が真面目で温厚なユートピア的世界だったと片づけてよいのだろうか。本書を読んで、考えてもらえれば幸いである」。
「あとがき」では、「本書の最も大きな特徴は、信用調査の実態を明らかにしたことにある」と述べ、「私からすれば、経済史研究の醍醐味とは、単に経済活動や経済成長の歴史を明らかにすることだけにとどまらない。人びとの行動を制約した要因を明らかにしつつ、人びとがどのようにして特定の制約下で経済活動を営んだのか、あるいは、経営拡大を果たした人びとは、制約を生んだ法制度や慣習をどのように利用したのか、という点にあると思っている。本書では、とくに後者に焦点をあて、三井大坂両替店の躍進を支えた歪な構造に目配りした」。
「金融史と社会史の架橋」と言えるのも、史料があり研究者がいてのことである。ならば、ここで考えてもらいたいのは、史料がなく研究者がいない分野で、この研究はどのように活かせるかである。言い換えると、限られた史料、限られた研究成果から、いかに想像力を発揮して時代や社会をみていくかである。著者はすでにある程度わかっているようだ。「不誠実な人びと」がいるから「人びとの真面目で誠実な行動」がわかるというのは、その一例であろう。豊富な史料と言いながら、だれもまだ使いこなせていない史料は山とある。研究者が多くいると言いながら、手つかずのテーマは山ほどある。著者はそのことに気づいたから、本書が書けた。同時に研究工具を出版したことで、ほかの時代、社会にも応用が利くなにかを期待したい。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『1912年のシンガポールの日本人社会-『南洋新報』4-12月から-』(研究資料シリーズ11)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2025年2月、159頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2004934)
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
早瀬晋三「戦前期日比混血者の「国籍」について」『アジア太平洋討究』第49号(2024年10月)pp.1-17. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/49/0/49_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「『南洋日日新聞』(シンガポール、1914-41年)を読むための覚書」『アジア太平洋討究』第48号(2024年3月)pp.1-66. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/48/0/48_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「消える近代日本・東南アジア関係史研究-アジア史のなかの東南アジアを考える」『史學雜誌』第133編第7号(2024年7月)pp. 43-46.
早瀬晋三[書評]:太田出・川島真・森口(土屋)由香・奈良岡聰智編著『領海・漁業・外交-19~20世紀の海洋への新視点』(晃洋書房、2023年)『社会経済史研究』Vol.90, No.2(2024年8月)pp.160-64.
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