吉見俊哉『アメリカ・イン・ジャパン-ハーバード講義録』岩波新書、2025年1月17日、274頁、1060円+税、ISBN978-4-00-432048-7
本書は、著者がハーバード大学教養学部の東アジア言語文明学科で、2018年春学期におこなった講義が基になっている。講義から出版まで数年かかった理由について、著者は「はしがき」で、つぎのように述べている。「最初に正直に告白しておけば、ハーバードでの実際の講義が、本書ほどの完成度でできたわけではない。毎週、それなりに長い講義をすべて英語でするのは結構高いハードルで、下手な発音は諦めるとしても、少なくとも自分が考えていることの骨格を英語で表現できるようにするのにも、日本語ではなく英語でアクセス可能な文献や資料と講義内容が結びつくようにするのにも事前準備が必要だった。私の時間的余裕と語学の力量では、毎週、こうした準備をしていくのが精一杯で、個々の議論の粗さは我慢をするしかなかった。他方、学生たちも、この講義が当初に想定していた白人アメリカ人はやや少数派で、多くがアジアや中南米からの留学生だった」。
著者の言うように、日本語の講義を英語ですれば、それですむわけではない。参考文献や資料が違うだけでなく、日本語と英語では発想が違う。日本語で書いた論文を英語にしようとすれば、まったく違う論文になってしまう。わたしはずいぶん前に、下手で時間のかかる英語で書くことを諦め、日本語の論文を翻訳することにした。日本語の論文・著書の執筆に集中し、時間をかけることで生産性は高まった。英語の授業で使うわたしが書いたものは、英語で書かれた「日本語の文献」だといい、「日本語の講義」を英語でおこなっていると開き直っている。幸い日本の大学で講義をおこない、8割が留学生なので、英語で「日本の大学の講義」をおこなっていると説明している。だが、著者はアメリカの大学で英語で講義をおこなったのだから、こんな開き直りは通用しなかっただろう。
本書は、はしがき、イントロダクション「アメリカ・イン・ジャパン-非対称的なクラインの壺」、全9講、参考文献からなる。「イントロダクション」の最後で、本書の構成がまとめられている。
まず、全体の流れを、つぎのように説明している。「日米のこの表裏の関係、「アメリカの中の日本」と「日本の中のアメリカ」の相互関係が一九世紀から二〇世紀にかけての地政学的布置の中で変容していくプロセスが、この講義の焦点です。講義の序盤では、「アメリカの中の日本」について論じるところから話が始まりますが、だんだん話の力点は「日本の中のアメリカ」に向かっていくでしょう」。
「第1講から第3講までは、一九世紀半ば以降の日米の出会いの考察です。第1講[ペリーの「遠征」と黒船の「来航」-転位する日本列島]では、ペリー遠征と「黒船」来航との関係を論じ、第2講[捕鯨船と漂流者たち-太平洋というコンタクトゾーン]では同時代、西太平洋で展開されたアメリカ捕鯨と日本人漂流民の関係を考えます。第3講[宣教師と教育の近代-アメリカン・ボードと明治日本]では、アメリカ東部のプロテスタントたちによる宣教が、どれほど深く近代日本の高等教育の基盤を形作ったかを論じます」。
「続く第4講から第6講までは、二〇世紀前半の「日本の中のアメリカ」」に焦点を当てます。第4講[反転するアメリカニズム-モダンガールとスクリーン上の自己]で論じるのは、戦前期日本における消費的なアメリカの受容です。「モダンガール」がその焦点ですが、そこに内在した複雑さを考えたいと思います。続いて第5講[空爆する者 空爆された者-野蛮人どもを殺戮する]では、戦時期に日本人を大量殺戮していったアメリカの暴力的まなざしと、そのアメリカに向けられていた日本側のまなざしの非対称性を論じます。そして第6講[マッカーサーと天皇-占領というパフォーマンス]では、占領期、マッカーサーと昭和天皇の間にどのような相補的な関係が結ばれていたのかを検証します」。
「第7講から第9講までは、二〇世紀後半における「日本の中のアメリカ」を考えます。第7講[アトムズ・フォー・ドリーム-被爆国日本に<核>の光を]では、一九五〇年代、日本がアイゼンハワー政権の「アトムズ・フォー・ピース」戦略を積極的に受け入れ、原子力開発への道を歩む過程を示します。第8講[基地から滲みだすアメリカ-コンタクトゾーンとしての軍都]では、米軍基地がアメリカン・カルチャーを若者文化の中に浸透させていく主要な発信源だったことを論じます。最後に第9講[アメリカに包まれた日常-星条旗・自由の女神・ディズニーランド]で、現代日本人の日常がどれほど深く「アメリカ」に包まれているかを、この国における「自由の女神」や「ディズニーランド」の受容を通じて示していきたいと思います」。
そして、最後に日本人読者向けの参考文献が、章ごとにある。個人的には、アメリカでの講義録ならば、受講生に示した英語の参考文献リストをみてみたい。
著者が、講義のイントロダクションとして強調したのは、「一九世紀半ばの日本で起きた」「「世界の見え方」の一八〇度の転換を、同時代のアメリカで展開してきた西へのまなざし、すでに述べた大陸での西漸運動の延長としての太平洋への「西漸」過程の中に位置づけ直してみること」で、つぎのような結論に相当することが、「イントロダクション」で述べられている。
「この私の講義では、近代世界の中で「日本」と「アメリカ」が、それぞれ独立の国家としてまずあり、その間に日米関係が営まれていったという仕方で問題を捉えてはいきません。むしろ、一八五〇年代にペリー提督の「遠征」=「黒船来航」という形で始まった「アメリカ・イン・ジャパン」は、一方では一八世紀末からすでに北米大陸で始まっていた西漸運動の帰結であり、他方では、長い間、中華文明との微妙な関係を保ち続けてきたユーラシア大陸東端の国が、東方から到来したグローバルな運動を「過去」から脱出する好機とした結果でもあるという両国を含みます。それはいわば、非対称的なクラインの壺のようなもので、裏返る孔のなかで「アメリカ」も「日本」も、どの位置から見るかによって見え方が違ってきます」。
日本が高度成長しているとき、日本のことを知りたければ日本語で得ろ、と言っても傲慢ではなかっただろう。しかし、「失われた○年」のあいだに、日本語は国際言語、研究・教育言語としての地位を失った。日本のことを知りたい者がいれば、英語など外国語で説明しなければならなくなった。アメリカ人に、日本語を母国語とする者が英語で説明するのと、英語を母国語とする者が英語で説明するのとでは、ずいぶん違ったものになるだろう。日本語を母(国)語とする者がアメリカで英語で講義する意味はなになのか、考えてみる必要がある。日本でも、英語で講義する大学、科目が増えてきている。分野によっては、日本で英語で講義する意味、内容は、ほかの国で英語でするものと同じかもしれないが、人文学ではずいぶん違う。そして、それができる日本人・外国人教員は限られている。テキストとする参考文献も少ない。本書の著者の苦労は、想像を超えるものであっただろう。本書は、日本人向けに日本語で書かれたものであるが、アメリカ人にどう「日米200年史」を語るかを示したことになる。その意味で、「コペルニクス的転回!」の書と言える。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『1912年のシンガポールの日本人社会-『南洋新報』4-12月から-』(研究資料シリーズ11)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2025年2月、159頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2004934)
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)電子版の発行は中止。
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
早瀬晋三「戦前期日比混血者の「国籍」について」『アジア太平洋討究』第49号(2024年10月)pp.1-17. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/49/0/49_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「『南洋日日新聞』(シンガポール、1914-41年)を読むための覚書」『アジア太平洋討究』第48号(2024年3月)pp.1-66. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/48/0/48_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「消える近代日本・東南アジア関係史研究-アジア史のなかの東南アジアを考える」『史學雜誌』第133編第7号(2024年7月)pp. 43-46.
早瀬晋三[書評]:太田出・川島真・森口(土屋)由香・奈良岡聰智編著『領海・漁業・外交-19~20世紀の海洋への新視点』(晃洋書房、2023年)『社会経済史研究』Vol.90, No.2(2024年8月)pp.160-64.
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