櫻田智恵『国王奉迎のタイ現代史-プーミポンの行幸とその映画』ミネルヴァ書房、2023年6月20日、323+20頁、6000円+税、ISBN978-4-623-09494-3
1967年の東南アジア半島スポーツ大会(SEAP GAMES)でタイのプーミポン国王が、セーリング競技で娘の王女とともに優勝した。メダルを授与するにあたって、国王より上位の者がいないため王妃が授与し、家族的な雰囲気のなかでセレモニーがおこなわれた。大会は12月に開催され、国王の12月5日の誕生日を盛りあげるイベントのひとつであった。このころから、国王の地方行幸がさかんにおこなわれるようになった。
本書の概要は、表紙見返しにつぎのように記載されている。「二〇一六年に没した、タイ前国王プーミポン・アドゥンヤデート(一九二七-二〇一六、在位一九四六-二〇一六)。タイ王国では君主制が政治・経済・社会に大きな影響力を持ち、特に前国王の「お言葉」は絶対であった。そうした強大な権威は、一体誰が、どのように創出し、人々に定着していったのか、本書は、彼が国民からの敬愛を集め、絶大な政治的権威を獲得する過程を、行幸の奉迎セレモニーと映画という観点から包括的に分析する」。
プーミポン国王がもっていた絶大なる権威について、著者は序章「「プーミポン国王」とは何だったのか」で、つぎのように説明している。「憲法において、タイの政治体制は「国王を元首とする民主主義」であると明文化されており、国王の発言は時に超法規的影響力を持っていた。国王の「ご意向」にそぐわない行動を取る政治家は、激しく糾弾され、選挙という正式な手続を踏まない形で退陣させられた。こうした体制は、「プーミポン体制」[略]や「国王が政治の上にいる民主主義」[略]などと呼ばれ、タイの特徴であると言われている」。
「それだけではない。プーミポン前国王の特筆すべき特色は、その社会的権威の大きさにある。国王の誕生日は「父の日」とも呼ばれ、その日の国王スピーチは国民の生活指針になってきた」。「タイ人の定義のひとつに「国王を敬う人々」」があり、「逆に言えば、国王を敬わない人々はタイ人ではないということである」。
「しかし、国王は即位当初から、こうした権威を持っていたわけではない」。「国王の権威は、一体いつ、どのように形成されたのだろうか。また、国王の崩御後「魔女狩り」が発生するほどに、王制や国王に対して民衆が大きな関心を寄せるようになったのは、いつからなのか。本書の大きな問いは、ここにある。この問いは、治世が変わって王制に対する人々の考え方も変化しつつあるプーミポン国王亡き後においても、そうした人々の意識変化やタイで起こっている社会対立の理由の根幹を知るために必要なものである」。
本書は、序章、3部全7章、補論、終章、結びに、などからなる。第一部「「国王神話」の黎明」第一章「プーミポン国王が背負った「使命」」では、「まず、プーミポン国王が即位した時代背景を整理した上で、タイにおける理想的な「国王像」がどのように語られているのかを概観し、そこからプーミポン国王はなぜ地方行幸を重視する必要があったのかをみていく。そして、実際に地方行幸がどれほど重視された公務だったのかについても、一次資料から確認する」。第二章「行幸開始前夜」では、「行幸実施に先立って「陛下の映画」を使ったイメージ戦略が展開していたことを明らかにした上で、なぜ地方行幸の実施が可能になったのかをみていく」。
第二部「「国王神話」の揺籃」は、「本書の核である」。第三章「プーミポン国王が行く」と第四章「膨らむ国王の存在感」では、「プーミポン国王自身が初めて行った大規模な地方行幸の奉迎風景がどのようなものだったのか、それがいかに演出されたのかをみた上で、そのドタバタの舞台裏についてみていく」。つづく第五章「分身化する映画、奉迎の「完成」」では、「「陛下の映画」が行幸を補完する意味で果たした重要な役割について言及する」。
第三部「「国王神話」の佳境」では、第六章「生身の国王が行く」において、「爆発的に行幸回数が増加した一九七〇年代について、その内容や家族内分担などについて分析している」。そして第七章「御簾の奥へ」で、「行幸が下火になったあと、国王が御簾の奥から影響力を行使するようになる過程を描き出す」。
補論「タイにおける映画の歴史」では、「タイの映画について論じている。本書全体のまとめに入る前に目を通してもらえれば、プーミポン国王の「陛下の映画」が制作・上映された時代背景理解の一助となろう」。
終章「神話「プーミポン国王」の誕生」においては、「これまで論じたプーミポン国王神話の形成過程についてまとめた上で、プーミポン亡き後の現国王ワチラーロンコーン(略)の下で起こっているタイの変化について概観し、結びとする」。
これまで「プーミポン前国王に関する研究の多くは、国王の政治的権威の盛衰に焦点を当ててきた」が、「この一〇年ほどで議論されるようになってきた新しい観点」は、「本書が分析対象とする社会的権威、つまり民衆の中で王室の存在が重要になった理由と経緯について」である。
著者は、「これらの研究が見落としている重大な視点がある」と述べ、つぎのように指摘している。「民衆が国王という存在に対し、一体いつから意識を向け始めたのかという点である。また同時に、民衆の関心を国王に向けるため、国王やその周辺の人物らがいかなる試みを行ったのか(または何もしなかったのか)という点についても不明である。言い換えれば、外国育ちでタイの人々には馴染みがなかったであろうプーミポン国王は、マス・メディアが未発達の時代にどのようにして自身の存在を人々に根付かせたのかという問題である」。また、「多くの先行研究では、一九七三年を境にプーミポン国王が政治的ヘゲモニーを握るようになったと指摘して」いるが、「国王と民衆との直接的紐帯の起点がどのようなものであったかが明らかにされていないのである」。
終章第一節「神話は如何に創出されたか」にたいして、つぎのように答えている。「プーミポン国王は絶大な権威を、その七〇年という長い治世の中でゆっくりと確立した。そしてそれは、戴冠直後から行われた一貫したメディア戦略の賜物であった」。「プーミポン国王はまさに国家を人格化したものであったと言えよう」。「行幸や映画を始めとするイメージ戦略で、人々の心を掴んできたプーミポン国王とタイ王制」である。
だが、第一節最後で「人間理性が成長してきたタイ社会において、その地位は健全なままでいられるのだろうか」と問いかけ、第二節「「国王神話」の薄暮」をつぎのパラグラフで結んでいる。「今、タイの人々は長い間魅せられてきた「国王神話」の幻影から目覚めつつある。目覚めた人々は、どこに向かうのか。「プーミポン国王」を思いうかべる時、人々は「古き良き」時代の象徴として彼を思うのか、それとも現在起こっている政治的問題の「根源」として思うのか。そして王室は、再び、そして新たに夢を見せることができるのか。タイは今、まさに大きな転換期に立っている」。
そして、「結びに」で、「本書が残した課題」について、「まず、冷戦期アメリカによる、国王のメディア戦略への介入という点について、十分に分析できなかった」と述べている。また、本書を執筆する過程で、「プーミポン国王が持つ王室内ネットワークに関する疑問」が新たに生まれた。さらに、「本書中にも登場する、ピン・マーラークンや各親王の動向、また、プーミポン国王が即位した当初最も力をもったランパイパニー妃(ラーマ七世の妻)の人脈などがプーミポン国王の権威形成に与えた影響はどのようなものだったのだろうか。今後は、これらの点についても分析を進めていきたい」としている。
ひとつの疑問から出発し、ある程度疑問は解けたが、新たにつぎつぎと疑問が沸いてきたというのは、研究が成功した証拠である。今後が楽しみである。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『1912年のシンガポールの日本人社会-『南洋新報』4-12月から-』(研究資料シリーズ11)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2025年2月、159頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2004934)
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)電子版の発行は中止。
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
早瀬晋三「戦前期日比混血者の「国籍」について」『アジア太平洋討究』第49号(2024年10月)pp.1-17. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/49/0/49_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「『南洋日日新聞』(シンガポール、1914-41年)を読むための覚書」『アジア太平洋討究』第48号(2024年3月)pp.1-66. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/48/0/48_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「消える近代日本・東南アジア関係史研究-アジア史のなかの東南アジアを考える」『史學雜誌』第133編第7号(2024年7月)pp. 43-46.
早瀬晋三[書評]:太田出・川島真・森口(土屋)由香・奈良岡聰智編著『領海・漁業・外交-19~20世紀の海洋への新視点』(晃洋書房、2023年)『社会経済史研究』Vol.90, No.2(2024年8月)pp.160-64.
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