ティルタンカル・ロイ著、小林和夫訳『モンスーン経済-水と気候からみたインド史』名古屋大学出版会、2025年2月10日、203+31頁、3600円+税、ISBN978-4-8158-1176-1
著者は、「ヨーロッパで生じた何らかのポジティヴな要因が貧しい国々ではみられなかった」理由として、「これらの社会があまりにも後進的であったか、それらの地域を支配していたヨーロッパの帝国主義者が西洋文明の恩恵を与えなかったからだ」という「陳腐な説明を否定」し、つぎのようにことの本質を説明している。
「私は、より長い寿命をもたらした活力を、経済的台頭の第一条件と呼ぶ。インドは、近代の飢饉の時代前後から、この条件を満たしはじめた。水不足が緩和されたことで、飢饉や病気が減少した。このような大きな改善があったにもかかわらず、制御可能な水へのアクセスの進展は限定的で、集約農業は十分に拡大しなかった。耕作地の生産性は低いままで、平均所得の曲線も横ばいであった。それでもなお、水の影響力を変えることで、インド人は、ヨーロッパにはみられなかった問題を解決したのである」。その証拠に、1950年代前半に3億台だった人口は、それから50年近く毎年2%以上増加し、2020年には14億を超えた。
帯には、つぎのような本書の概略が載っている。「水への安定したアクセスなしに、熱帯アジアの持続的な経済発展はありえなかった- 飢饉やコレラとの闘い、井戸をめぐるカースト間の対立、失業と停滞を生む乾季への対処など、過酷な環境との交渉を彩り豊かに描き出し、新たな発展のモデルを提示する」。
本書は、3つのタイプの読者を想定して書かれている。「一番目のタイプは、経済成長や不平等を説明するという課題に関心のある読者である」。「二番目のグループは、経済発展の持続可能性を議論することに関心のある読者である」。「三番目のターゲットは、近代インドの興隆に関心のある読者である」。
なかでも、一番目のタイプにかんしては、本書の核心に触れるため、つぎのように説明している。「経済史家は、国家間の比較によって、近代世界における経済成長の根源を発見しようとしている。彼らの用いる理論のほとんどは、西ヨーロッパの経験にもとづいている。その理論では、一九世紀のヨーロッパにおいて経済上の大転換をもたらした諸要素が、なぜ世界の他地域では見られなかったのかが問われる。しかし、世界各地の地理的条件が不均衡なものであれば、この方法はあてにならない。熱帯モンスーン地域の初期条件はヨーロッパや北米と異なっていたため、ヨーロッパ人やアメリカ人にとって解決の必要性があった問題とは異なる問題を解決することで、経済成長に到達できたのである。その問題とは、清潔な水への安定したアクセスの確保、そしてモンスーンの季節性への対処である」。
本書で強調したい5つのポイントは、序章にあたる第1章「なぜ気候が重要なのか」の最後で、本書の構成の前につぎのようにまとめられている。「第一に、熱帯モンスーン気候では、経済成長と人口成長は水の安定的供給に依存している。一九世紀インドの乾燥地における貧困と飢饉は、水供給の不安定さに起因していた。第二に、安定的供給を実現するための措置は、この地域に集約農業、都市化、そして死亡率の低下をもたらした。第三に、水不足の世界において、水の不安定な供給に対処するために採用された手段は、持続可能性を損ない、水ストレスを高めた。第四に、一九世紀以降、水へのアクセスに対処する新たな手段が出現したのと並行して、似たような形で(また部分的にはこれらの手段ゆえに)、労働力と資本の労働シーズン間の移動性を高める一連の措置が講じられた。これらの措置もまた、コストをともなうものであった。第五に、このストーリーは、さまざまな種類の環境悪化に直面した世界の経済史をどのように描くべきなのか、という教訓を与えてくれる」。
本書は、全8章、訳者解説などからなる。著者は、第2章以下をつぎのようにまとめている。「私は、六つの章にわたって物語を進めてゆく。まず一八八〇年以降、一連の人為的行為が人口変化と経済変化にかんする気候的制約を緩和したことを示したうえで、残りの部分では、これらの行動とは何であったのか、なぜそれらが一九世紀後半に現れたのか、そしてどのようなコストがかかったのか、ということを探求する。私は、一九世紀後半の飢饉救済政策が「水の飢饉」を季節条件の一つとして定義し、水に対するパブリック・トラスト(公共信託)を導入したことを示す(第2章[水と飢饉])。第3章[水と平等]は、社会的に公認されてきた窮乏の諸形態を批判した政治運動に注目する。第4章[公共財への道]は公的な介入、第5章[都市における水]は都市、そして第6章[水のストレス]は水ストレスを検討する。第7章[季節性]は季節性を扱う。最終章である第8章は「モンスーン経済」と題して、比較史研究に対するインド史の含意を探る」。
その第8章では、まず要約し、つぎのような「教訓」を主張している。「本書には、方法論上の含意もある。私が主張したいのは、そもそもなぜ地理が意味をもつのかを知ることが重要であるということだ。そしてそれは、環境の変化と経済成長の持続性を理解し、議論する方法にかんしても大きな意義をもつ」。
インドには、ヨーロッパとは違う意味での経済発展があり、水の重要性をつぎのようにまとめ、さらなる問いを発している。「水の制御をパフォーマンスの基準とすべきだという提案は、ヨーロッパ・アジア間の不毛な比較からグローバル経済史を解放し、より乾燥した地域間での比較を可能にする。たとえば、世界の蒸発量マップをみると、乾燥した熱帯地域、いわゆるモンスーン・アジア、そして南アジアやサヘルのような熱帯モンスーン地域は、水の制御能力という点でいくつかの類似点や相違点を共有していることがわかる。これらの地域の経済〔発展〕径路も異なっていたのだろうか。これらの径路には、相違点よりも類似点の方が多かったのだろうか。その相違点は地理的条件に由来していたのだろうか。植民地主義やグローバル化は、これらの地域に異なる影響を与えたのだろうか、それとも同様の影響を与えたのだろうか」。「さらに本書には、ストレスと持続可能性にかんする議論に対するメッセージがある」。
そして、つぎのパラグラフで本書を閉じている。「水へのアクセスと人間の自由が同等であるというこの考え方は、熱帯モンスーン地域における持続可能性が多くの活動家の認識よりもはるかに複雑な問題であることを示唆している。彼らは、温室効果ガスや過剰消費に執着するあまり、水にかんする異なる種類の課題に気づいていない。乾燥地域では、厚生と環境との間でトレードオフが生じる。水ストレスにさらされている人びとに対して消費を減らすように求めることは、問題への説得力のある解決策にはならない。協同や規制が必要なのはもちろんであるが、たとえば点滴灌漑などを背後で支えている、科学や資本主義も必要なのである」。
いくらアジア人研究者が増えても、ヨーロッパ中心史観はなかなか消えない。多くのアジア人が欧米豪などヨーロッパ語圏で学び、知らず知らずのうちにヨーロッパ中心史観に染まるため、学校教育で教える「世界史」はヨーロッパ中心史観そのものになる。アジア中心の「世界史」や「グローバル史」はなかなか登場しない。本書は、そんなヨーロッパ中心史観に挑戦した書である。こういった事例を積み重ねて、やがてはヨーロッパ中心史観ではない歴史が登場することになるのだろうか、期待したい。そのためにも、インドだけでなく、さらに広げて論じることが必要で、そのことは著者も重々承知しており、「訳者解説」につぎのように書かれている。「本書では基本的に南アジアを対象とした議論が展開されているが、著者はその後さらにスケールを広げ、インド以外の熱帯の乾燥地域も視野に収めた研究を進めており、まもなく水と経済発展の関係を論じる単著を刊行する予定である」。
水という貴重な資源が豊富にあるということに気づいていない日本人には、すこしわかりにくい議論かもしれない。
ちなみに、インドは2023年9月に国名を「バーラト」に変更した。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『1912年のシンガポールの日本人社会-『南洋新報』4-12月から-』(研究資料シリーズ11)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2025年2月、159頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2004934)
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)電子版の発行は中止。
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
早瀬晋三「戦前期日比混血者の「国籍」について」『アジア太平洋討究』第49号(2024年10月)pp.1-17. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/49/0/49_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「『南洋日日新聞』(シンガポール、1914-41年)を読むための覚書」『アジア太平洋討究』第48号(2024年3月)pp.1-66. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/48/0/48_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「消える近代日本・東南アジア関係史研究-アジア史のなかの東南アジアを考える」『史學雜誌』第133編第7号(2024年7月)pp. 43-46.
早瀬晋三[書評]:太田出・川島真・森口(土屋)由香・奈良岡聰智編著『領海・漁業・外交-19~20世紀の海洋への新視点』(晃洋書房、2023年)『社会経済史研究』Vol.90, No.2(2024年8月)pp.160-64.
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