古田和子・太田淳編『アジア経済史 下』岩波書店、2025年4月24日、446頁、3600円+税、ISBN978-4-00-061627-0
本書は、「初のアジア経済史の教科書を刊行するというアイデア」の下に集まった編者を含め9人の執筆者が8年かけて辿り着いた成果で、「最新の知見にもとづき、東アジア・東南アジア・南アジア全域を俯瞰する通史、政治・社会のしくみ、環境や生活文化にも着目し、アジア域内の連関・比較の観点も重視して、人びとの営みの総体としての経済の歴史を描く」。「銀流通によってグローバル化が進む16世紀から、19世紀のアジア域内貿易の展開までを扱う」上巻の後を受けて、下巻では「19世紀における統治のあり方の転換から始まり、現代アジア経済の発展と社会変容、そして抱える課題までを扱う」。上巻については、すでに2024年2月22日に、このブログで紹介している。
本書は、第Ⅳ部「「衝撃」とアジア経済-長期の19世紀」の後半部分の第13-14章からはじまり、第Ⅴ部「20世紀前半のアジアと世界経済」(第15-19章)、第Ⅵ部「成長するアジア経済の光と影」(第20-24章)、終章へとつづく。各部の頭には、章ごとの概要が示されている。また、終章の前半で、各部がまとめられている。
上巻と下巻に分かれた第Ⅳ部は、つぎのように説明されている。「19世紀を中心に18世紀末から第一次世界大戦前までの「長期の19世紀」と呼ばれる時代を扱う。第11、12章(上巻)では、欧米勢力がアジアに「衝撃」をもたらす一方で、アジア人によるアジア経済の発展があったことを示した。シンガポール・香港・上海がアジア商人の広域ネットワークのハブとして重要な役割を担うようになったし、インド系・中国系を中心とした域内の労働力移動・送金がかつてない規模で展開したのもこの時代であった」。そして、「下巻では各国・地域の比較を念頭に、第13章[「統治制度の転換」]で近世統治のあり方がどう変わったか、第14章[「経済社会の連続と断絶」]で在地の経済社会がいかなる対応を見せたのかを検討する」。
そして、終章で、つぎのようにまとめられた。「第Ⅳ部では、欧米勢力がアジアに「衝撃」をもたらす一方で、アジア人によるアジア経済の発展があったことを強調した。イギリスを中心に形成された自由貿易の原則や国際通貨制度などの金融システム、そして電信網や蒸気船など近代的インフラはアジアの貿易を大規模かつ効率的なものにしたが、これらのいわば「公共財」を最大に活用したのはアジアの商人であった。上海や植民地都市シンガポールに集まる華人などアジア商人は広範囲にネットワークを構築し、イギリス綿布などヨーロッパの工業製品を各地に届ける一方で、アジア域内で消費される産品の貿易(アジア域内貿易)と域内分業を促進した。植民地支配の拡大とともに中国およびインドから多数の労働移民が東南アジアのプランテーションや鉱山に渡ったが、華人移民は賃金を祖国に送る送金網を発達させ、それを通じてシンガポールと香港は現代まで続く国際金融都市に発展した。ビルマやマラヤに移住したインド系金融カーストは、現地住民による水田やゴム園の開発を融資で支援した。アジアには人口圧力、疫病、内乱や経済の停滞など「内なる危機」に遭遇してその対応に苦慮する地域も多かったが、そのなかでまずインドが、それを追うように日本が近代紡績業の工業化に成功した」。
第Ⅴ部は、「第一次世界大戦から第二次世界大戦終結後の国際秩序形成までの時期を取り扱う」。第15章「世界経済の転換とアジア」は、「第一次大戦後の国際分業体制再建の試みとアジアにおける大戦の影響を概観する。イギリスが支えていた分業体制は大戦で崩壊し、代わって覇権国となったアメリカは貿易や投資の国際的拡大に消極的で、戦後に再建された体制は不安定化した、アジアでは、大戦中にヨーロッパからの輸入が途絶したこともあって、日本・中国・インドなどで工業化が進んだ。最終節では都市の成長にともない新たな消費の形態が生まれたことを紹介する」。
第16章「帝国日本の社会経済」は、「日本帝国経済の形成とその変容を概観する。日本の植民地は、内地向けの食料や工業原料の生産地となることや、日本製品の市場となることが求められ、そのために通貨・関税制度の再編や交通通信インフラの整備などが行われた。こうして台湾では農業が進展し砂糖と米が増産された一方で、朝鮮では日本との分業関係を深めながら工業化が進んだ」。
第17章「世界恐慌とアジア」は、「世界恐慌の影響を検討する。日本は金本位制を離脱し、低為替放任政策と積極財政によって恐慌を脱したが、東南アジアとインドの輸出依存経済は大打撃を受け、農村部で社会不安が広がった。中国でも国際的な銀価変動により経済が動揺したが、政府が貨幣を統一し外国為替レートを安定させた」。
第18章「戦争と占領」は、「日本のアジア進出が各地にもたらした影響を検討する。日本では戦時統制経済のもとで国家が経済のあらゆる分野を統制するようになった。さらに自給自足圏として「大東亜共栄圏」が構想され、朝鮮も各種の動員計画に組み入れられたほか、東南アジアでは日本に需要のない商品作物の生産が抑制され、米など自給産品の増産が図られた。しかし貿易の途絶や労働力の動員は各地で食料不足や物価上昇を招き、人びとの生活を苦しめた」。
第19章「戦後アジア秩序の成立と展開」は、「第二次世界大戦後の秩序形成を概観する。各地でかつての植民地から多くの独立政権が生まれたが、それにともなう混乱も甚大だった。アジアの西側諸国ではアメリカ主導で固定為替相場制下の為替自由化と自由貿易体制の確立が目指され、その実現のためIMFなどの国際組織や制度が形成された。日本ではGHQが占領政策を実施し非軍事化・民主化を進めたが、国際情勢の変化を受けてしだいに経済復興路線に転換した」。
第Ⅵ部は、「20世紀後半から21世紀初頭(略)までを対象に、成長するアジア経済の光と影を分析する。第二次世界大戦の終結は戦後処理をめぐって米ソの敵対的状態(冷戦)をもたらし、アジア諸国における新体制の成立や日本とアジア諸国との戦後賠償の行方に大きな影響を及ぼした」。
第20章「アジア諸国における新体制の成立(1950-60年代)」では、「1950-60年代を中心に、日本の復興と高度経済成長、植民地からの独立と国民国家の動揺、中華人民共和国の社会主義建設、混合経済のインドなど、戦後多様な道をたどったアジア各地の経済過程を考察する」。
第21章「開発を目指すアジア(1970年代-80年代半ば)」は、「1970-80年代半ばに焦点を当て、ブレトン・ウッズ体制の崩壊と変動相場制への移行や石油危機によって、世界とアジアがどう変わったかを見ていく。人口爆発とアジアの農業、アジアNIEsの台頭、開発独裁の問題、中国の改革開放などと同時に、「停滞するアジア」の国々の存在にも目を向ける」。
第22章「開放経済と地域連携の模索(1980年代半ば-2000年代)」は、「1980年代後半以降を対象とする。1985年のプラザ合意による円高をきっかけに日本の対アジア投資が拡大し、東南アジアにおける輸出志向型工業化や体制の自由化が進んだが、90年代末にアジア通貨危機に陥った国々もあった。中国経済は90年代以降急成長し、2001年のWTO加盟により世界経済に本格参入した。ベトナムなどでの市場経済化の動きやインドの経済自由化も重要な変化であった。また現在も続く地域連携の模索にも触れる」。
第23章「現代アジア経済の発展と社会変容」では、「まず、現在のアジアが世界のなかで占める経済規模を確認する。本書が検討してきたアジア(東・東南・南アジア)は今やアメリカやEUを凌ぐ存在になり、それには1990-2000年代以降急速な展開をみせたグローバル・バリューチェーンも大いに寄与した。東・東南アジアは域内の相互依存を深めることで地域としての成長を実現してきたが、こうした構造は不安定化する国際政治環境や生産年齢人口比率の低下などによって近年明らかに変化している。インドを中心とする南アジアが今後アジアのなかでどのような役割を果たすのかも重要なポイントになる。続く節では、経済発展にともなって生じた社会の変容をICT化とサービス産業、人口動態、家庭とジェンダー、都市、教育から俯瞰する」。
第24章「現代アジア経済の課題」では、「21世紀のアジアが直面する課題を人権と民主化、国内格差、エネルギーと環境、安全保障の観点から検討する」。
「終章ではまず前半で、本書が扱った環境要件や歴史的展開のうち、特にどのような要因がアジア経済に現在の地位をもたらしたのかに関して、本書の見解を示」し、「後半では、経済成長を果たしたアジアが現在どのような課題を抱え、どのような選択に直面しているのかを示」している。具体的に、前半では「アジア域内の連関と発展」という見出しのもとで各部の要約をおこない、後半では「人口・家族とジェンダー、人権と格差」「空間における知識・情報の伝搬と人の移動」「エネルギーと環境」の3つに分けて「現代アジアの課題」を提示している。
そして、つぎのパラグラフで本書を閉じている。「現代アジア経済を取り巻く環境は今、大きく変化している。世界各地で紛争が多発しているなかで、台湾問題・朝鮮半島情勢・尖閣諸島問題や南シナ海の領有権問題、ミャンマー情勢、インド・パキスタン間のカシュミール問題など、アジアもまた多くの問題を抱え安全保障上の不確実性は高まっている。こうしたなかでアジア域内の関係を今後の経済発展につなげるためにはどのようなモデルが有効なのか、環境をめぐるテクノロジーの開発が直面する課題にイノベーションをもたらす可能性があるのかどうか、厳しさを増しているアジアの安全保障をどのような形で担保していくのか、対応すべき難問は山積している。その対応にあたっては、本書が試みたような歴史の理解が欠かせないものとなろう」。
「上巻」でも同じ疑問を呈したが、1つの節を最大5人で分担執筆した効果があったかどうかである。通常、このような通史を書くときには、世界・アジアのなかの東・東南・南アジア全域を書くときには巻末の広告にある『岩波講座 世界史』、個々の地域を書くときには世界各国史のような代表的な通史・概説書、そして各国を基本に書くときには原資料に基づいた専門書を参考にする。本来、専門書に基づいて書くようなところを、通史・概説書に基づいて書くなら、「専門外」の人が書いてもいい。書いた人の視野が広がり、将来専門書を書くときに、広い視野なかで個別研究を考察・分析できるようになる。執筆者の多くは、ナショナル・ヒストリーを基本に書くことが多いが、実はそのナショナル・ヒストリーさえ書く機会はそれほど多くなく、充分に理解しているかどうか怪しい。自分の専門を、ナショナル・ヒストリーのなかで考える機会にはなっただろうが、地域史(ここでは3つの地域と個々の地域)のなかで考える絶好の機会が本書にあっただろうに、このように細分した分担執筆では、その機会はいかせなかったことになる。
もう1点気づいたのは、本書で扱った地域を考えた場合、経済史だけでは充分に語ることができず、社会経済史として考えざるをえないだろう箇所が随所にあり、本書でもそれが如実に表れたところがところどころにあった。下巻では統計資料が基本となるが、主食である米は稲刈りのときに大量の落ち穂が発生し落ち穂は稲刈りを手伝った者のものになったり、果物も樹上にあるときには所有者が存在するが落ちればだれのものでもないという慣行があったりで、統計に表れないものが多々あった。本業と副業の境目は曖昧で、インフォーマル経済の占める割合はかなり大きく、支配者は税をとれなかった。統計資料も、時代や地域によって、その精度はまちまちであった。そんな場合は、社会史を念頭において経済史を考えざるをえなくなるはずだ。経済史の限界を示すことで、それぞれの地域の特色が明らかになる。そうでないと、地域は便宜上、地理的に分けただけになる。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『戦前期東南アジア海域における日本人漁業活動の基礎資料』(研究資料シリーズ12)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2026年2月(発行予定、早稲田大学リポジトリからダウンロードできるようになる)
早瀬晋三『1912年のシンガポールの日本人社会-『南洋新報』4-12月から-』(研究資料シリーズ11)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2025年2月、159頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2004934)
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるfile:///C:/Users/shaya/Downloads/KenkyuShiryoSeries_10_02.pdf)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/78131)電子版の発行は中止。
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
早瀬晋三「戦前期日比混血者の「国籍」について」『アジア太平洋討究』第49号(2024年10月)pp.1-17. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/49/0/49_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「『南洋日日新聞』(シンガポール、1914-41年)を読むための覚書」『アジア太平洋討究』第48号(2024年3月)pp.1-66. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/48/0/48_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「消える近代日本・東南アジア関係史研究-アジア史のなかの東南アジアを考える」『史學雜誌』第133編第7号(2024年7月)pp. 43-46.
早瀬晋三[書評]:太田出・川島真・森口(土屋)由香・奈良岡聰智編著『領海・漁業・外交-19~20世紀の海洋への新視点』(晃洋書房、2023年)『社会経済史研究』Vol.90, No.2(2024年8月)pp.160-64.
早瀬晋三最終セメスター「単著単行本を振り返る」
早稲田大学早稲田キャンパス19号館608号室、17:00~
10月14日『「ベンゲット移民」の虚像と実像-近代日本・東南アジア関係史の一考察』(同文舘,1989年11月)292頁。
10月21日『海域イスラーム社会の歴史:ミンダナオ・エスノヒストリー』(岩波書店,2003年8月)265頁。
10月28日『歴史研究と地域研究のはざまで-フィリピン史で論文を書くとき』(法政大学出版局,2004年12月)188頁。
11月4日『戦争の記憶を歩く-東南アジアのいま』(岩波書店、2007年3月)216頁。
11月11日『歴史空間としての海域を歩く』(法政大学出版局、2008年10月)268頁。
11月18日『未来と対話する歴史』(法政大学出版局、2008年10月)290頁。
11月25日『未完のフィリピン革命と植民地化』(山川出版社、2009年2月)90頁。
12月9日『マンダラ国家から国民国家へ-東南アジア史のなかの第一次世界大戦』(人文書院、2012年6月)170頁。
12月16日『フィリピン近現代史のなかの日本人-植民地社会の形成と移民・商品』(東京大学出版会、2012年10月)282+26頁。
1月13日『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』(岩波現代全書、2018年3月)224+22頁。
1月20日『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES・SEA GAMES 1959-2019』(めこん、2020年7月)383頁。
1月27日『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』(人文書院、2022年1月)412頁。
コメント