後藤乾一『火の海の墓標-草莽のアジア主義者・市来龍夫とインドネシア』めこん、2025年12月1日、331頁、2500円+税、ISBN978-4-8396-0341-0

 本書は、1977年に刊行された『火の海の墓標-ある<アジア主義者>の流転と帰結』が元になっている。だが、半世紀近い歳月が流れたあいだに、「本書の基本的テーマである、日本・インドネシア(東南アジア)関係史をめぐる研究や史資料整備は、格段の進展を見せてきた。本書は、こうした近年の研究・アーカイブの充実した成果に支えられ、旧版に大幅な加筆・修正を施して上梓したものである」。

 本書を読むと、この新版は、著者本人の個人的研究の積み重ねにあるだけでなく、著書の研究母体であった早稲田大学のインドネシア研究の長年の蓄積、同世代の研究者たちとの切磋琢磨を通じて刺激しあってきた成果だと感じる。

 この新版の強みは、旧版のために「市来の郷里、球磨地方をはじめ、北は山形から南は鹿児島までの各地で、貴重なお話を聞かせて下さり、写真や資料を提供して下さった方々、また、得難い調べ物をして下さった方々、こうした各地の故老の熱意が」、この半世紀の研究の発展と史資料の整備とマッチしたことである。半世紀前の声は、もう聞けない。

 旧版執筆のきっかけは、1974年1月の田中角栄首相のインドネシア公式訪問時の「ジャカルタ反日暴動」にあった。死者11人、重軽傷者137人、逮捕者775人を出した「非常事態」直後の1ヶ月ほどを、「本書の資料収集を兼ね、「事件現場」に身を置く中で、筆者は、この事件を契機として、一九世紀末以降、インドネシア(当時は蘭領東インド)に、直接的にあるいは間接的に、また、積極面でも消極面でも、一定の影響を及ぼしつづけ今日に至っている、日本の〝南方関与〟のあり方について、今いちど、整理し直さなければならない、と痛感するようになった」。

 当時、著者は、市来のことを、つぎのように紹介している。「市来は、昭和初年、二十二歳の時、「近代日本」を逃れるようにしてスマトラ島パレンバンに渡った。当初の彼は、「南洋一の写真館を経営する」ことを夢み、〝一等国民〟としての日本人意識に燃えた平凡な一日本人青年にすぎなかった。だが、その市来は、「近代日本の似姿」ともいうべき南洋邦人社会に安住し得ず、植民地の民衆社会の最底辺部であるカンポン(部落)に生活を営み、そこに安らぎと一体感を見いだし、「無告の民」への限りない愛情と素朴な反西欧植民地感情をはぐくんでいった。そうした市来にとって、今次大戦は、まさに「日本を盟主」とする「大東亜戦争」であり、日本軍政はインドネシア独立への介添役であり、その軍政に参加することに無上の喜びを感じとっていた」。

 「しかし、日本の援助によるインドネシア民族の独立を心から願っていた彼にとって、日本軍政の「解放」のタテマエと「資源」に向けてのホンネが急激に乖離してゆくのを間近にみるのは耐え難い苦悶であった。昭和二十年八月十五日、祖国日本の敗戦を知った市来は、その瞬間、「共生同死」を誓い合った武装青年(プムダ)の群れの側に、その精神と肉体を投じていった」。そして、インドネシア独立軍に投じた市来は、1948年8月10日に病死した吉住留五郎の後、特別遊撃隊を率い、49年1月3日サトウキビ畑でオランダ軍との撃ちあいのなか、一弾が前頭部を貫通して戦死した。42歳だった。

 1958年に日本国とインドネシア共和国が国交樹立した暮れに、「東京・港区芝、東京タワーを見上げる愛宕下」の曹洞宗の名刹・萬年山青松寺に、石碑が建てられた。「その石碑には、「市來〔来〕龍夫君と吉住留五郎君へ 独立は一民族のものならず、全人類のものなり」と書かれた、大統領スカルノ自筆の簡潔で力強い言葉が刻み込まれている」。そして、裏面にはジャワに徴用文化人として派遣され、市来とも吉住とも相知った作家の富澤有為男の撰文が、つぎのように刻まれている。「市来龍夫君、熊本県の人、明治三十九年生  吉住留五郎君、山形県の人、明治四十四年生  両君は共に青春、志を抱いてジャワに渡航力学よくイ語の蘊蓄を極め、相次いで現地の新聞記者となる。爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して、蘭印政府より投獄追放の厄に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネシアに渡り、敗戦に際して同志を糾合、イ軍に投ずるや共に軍参謀、指揮官となり、激闘転戦ののち、遂に市来君は一九四九年マラン・ダンペット〔ダンピット〕の戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年、ケデリ〔クディリ〕州セゴンの山中にインドネシア永遠の礎石となって散ず」。

 だが、日本では、「天皇への反逆者」「現地逃亡脱走兵」の烙印を押された。転機が訪れたのは、1990年の入管法の改正で日本での長期滞在と就労が可能な「日系人ビザ」が発給されるようになってからだった。労働者不足に悩む日本政府は「残留元日本兵」と呼んで、その2世、3世、配偶者が日本で就労できるようにした。2023年、天皇・皇后両陛下はインドネシア訪問に際し、かれらの子孫と会い、かれらの眠るインドネシア英雄墓地で献花した。

 著者は、「エピローグ」で、つぎのように述懐している。「いくたびとなく市来龍夫の前に立ちはだかった彼の第一の祖国・日本と、そして、カンポン・デモクラットとして再生したアブドゥル・ラフマン[市来龍夫]を、最後の土壇場ではねかえした、彼の第二の祖国インドネシアの、戦後アジア太平洋地域における北と南の二つの〝大国〟は、今日では構造的ともいえる〝友好的〟な国家関係を維持し、現在に至っている」。「翻って、多くの同志とともに、インドネシアの大地に眠るアブドゥル・ラフマン・イチキにとって、この戦後近代の東京・ジャカルタ関係の緊密さとは、一体何を意味するものなのであろうか。かつて、苦闘の青春時代を過ごしたジャワ(インドネシア)民衆の住まう片田舎の頭越しに進展している両国関係を、アブドゥル・ラフマンは、あの黒く澄んだ、大きな瞳で、どのようにみつめているのであろうか」。

 「ジャワ」はスマトラ島を含むこともあれば、首都のバタビア(ジャカルタ)だけ、あるいは、インドネシア全体をさすこともある。球磨からトコ・アソ(阿蘇商店)のあるスマトラ島パレンバンに渡航し、スンダ人の西ジャワのバンドンに移り、60キロ離れたスメダン町を往復するバスの車掌をするうちに、スメダン町のカンポン(庶民集落)の貧しい農家の娘の家に転がり込んだ。現地の女性と暮らすことは、「南洋の日本人社会の不文律に反するだけでなく、一等国民からこぼれ落ちることを意味する」。当時、「日本人が部落(カンポン)へ入るといふことは、もう日本人として取扱はれない、土人になつたということなんです」。だが、1930年代後半という時代が、市来を「アジア主義者」にし、「「国策」と「アジア解放」のはざまで」揺れ動き、日本のインドネシア占領後は宣伝班、郷土防衛義勇軍(ペタ)教育隊指導部に勤務し、敗戦の日を迎えた。「インドネシア各地で一〇〇〇名近い日本軍将兵・軍属、さらには一般邦人が、日本軍を離脱し、さまざまな理由からインドネシアの独立戦争にその身を投じることになる」が、市来が「他の離隊者と決定的に異なるのは」、「少なくとも六月の時点ですでに、敗戦後をみすえ、日本軍政当局がお膳立てした独立路線、それに同調する民族指導者を見限り、インドネシア人民による武力闘争を通じての独立達成を視野に入れていたことであった」。

 1974年の「ジャカルタ反日暴動」以来、著者に突きつけられた「日本の〝南方関与〟のあり方について、今いちど、整理し直さなければならない」という問いかけに、終わりはなさそうである。いまだ、「その素朴な自らの問いかけは、明治以降の「近代日本」にとって、「南洋(東南アジア)」と呼ばれた地域は、一体何であったのか、先人たちは、この南洋をどのように理解し、どのような関わりを持ってきたのであろうか、そして、さまざまな今日的課題を日本に突きつけているこの地域との間に、将来、日本人はどのような関係を築いてゆくことになるのだろうか、といった幾重もの疑問と重なりながら、[著者の]頭の中を去来」している。

 今日、インドネシア人は、アブドゥル・ラフマン・イチキら「残留元日本兵」、とくに英雄墓地に埋葬されなかった者をどうみているのだろうか。インドネシア人研究者が、本書のような歴史研究を踏まえて、著者の日本とインドネシア間の「さまざまな今日的課題」にこたえてくれることを期待している。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『戦前期東南アジア海域における日本人漁業活動の基礎資料』(研究資料シリーズ12)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2026年2月(発行予定、早稲田大学リポジトリからダウンロードできるようになる)
早瀬晋三『1912年のシンガポールの日本人社会-『南洋新報』4-12月から-』(研究資料シリーズ11)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2025年2月、159頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2004934)
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるfile:///C:/Users/shaya/Downloads/KenkyuShiryoSeries_10_02.pdf)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/78131)電子版の発行は中止。
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

早瀬晋三「戦前期日比混血者の「国籍」について」『アジア太平洋討究』第49号(2024年10月)pp.1-17. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/49/0/49_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「『南洋日日新聞』(シンガポール、1914-41年)を読むための覚書」『アジア太平洋討究』第48号(2024年3月)pp.1-66. https://www.jstage.jst.go.jp/article/wiapstokyu/48/0/48_1/_pdf/-char/ja
早瀬晋三「消える近代日本・東南アジア関係史研究-アジア史のなかの東南アジアを考える」『史學雜誌』第133編第7号(2024年7月)pp. 43-46.
早瀬晋三[書評]:太田出・川島真・森口(土屋)由香・奈良岡聰智編著『領海・漁業・外交-19~20世紀の海洋への新視点』(晃洋書房、2023年)『社会経済史研究』Vol.90, No.2(2024年8月)pp.160-64.

早瀬晋三最終セメスター「単著単行本を振り返る」
 早稲田大学早稲田キャンパス19号館608号室、17:00~
10月14日『「ベンゲット移民」の虚像と実像-近代日本・東南アジア関係史の一考察』(同文舘,1989年11月)292頁。
10月21日『海域イスラーム社会の歴史:ミンダナオ・エスノヒストリー』(岩波書店,2003年8月)265頁。
10月28日『歴史研究と地域研究のはざまで-フィリピン史で論文を書くとき』(法政大学出版局,2004年12月)188頁。
11月4日『戦争の記憶を歩く-東南アジアのいま』(岩波書店、2007年3月)216頁。
11月11日『歴史空間としての海域を歩く』(法政大学出版局、2008年10月)268頁。
11月18日『未来と対話する歴史』(法政大学出版局、2008年10月)290頁。
11月25日『未完のフィリピン革命と植民地化』(山川出版社、2009年2月)90頁。
12月9日『マンダラ国家から国民国家へ-東南アジア史のなかの第一次世界大戦』(人文書院、2012年6月)170頁。
12月16日『フィリピン近現代史のなかの日本人-植民地社会の形成と移民・商品』(東京大学出版会、2012年10月)282+26頁。
1月13日『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』(岩波現代全書、2018年3月)224+22頁。
1月20日『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES・SEA GAMES 1959-2019』(めこん、2020年7月)383頁。
1月27日『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』(人文書院、2022年1月)412頁。