南川高志『ローマ人の心-古代帝国の実像に迫る』講談社選書メチエ、2026年2月10日、336頁、2200円+税、ISBN978-4-06-542065-2
「困難を承知で挑戦した」が「執筆は難渋を極めた」と、著者は「あとがき」で書いている。
本書の概要は、裏表紙に、つぎのようにまとめられている。「「人類が最も幸福だった時代」と称された紀元二世紀のローマ帝国。人々は美食に舌鼓を打ち剣闘士の闘いに熱狂して、満ち足りた日々を送っていたと言われる-本当にそうだったのだろうか? 帝国の基本構造、ローマ人の一日、そして一生から始まり 帝国エリートはもちろん、奴隷や属州の民にいたるまで、どのような思いをもって、古代人が帝国を生きていたのかに迫る。広大な帝国の統合を支えたものこそ、人々のある「思い」だった。政治史を中心に研究を重ねてきた著者が、新たな視点で描き出す 古代帝国のもうひとつの姿」。
著者は、「プロローグ」の最後の見出し「ローマ人の心に迫る」で、つぎのように本書の目的を述べている。「ローマ人の「心」に関わるいくつかの問いをたてて、彼らの世界を考えようとする試みである。そこから、大帝国の実像が見えてくるかもしれない。古代ゆえ、「心」を考えるための史資料は多くはないが、挑戦してみよう」。
と書いたものの、著者はまだ自信がもてなかったのか、序章「ローマ人の心を碑銘に読む」で具体的事例をあげていきながら、本書の構想を練っていったのであろう。最後の見出し「ローマ人の生き方、考え方、感じ方を問う」で、本書の目的を再確認して、つぎのパラグラフで締めくくっている。
「ローマ帝国史の研究を長らく行ってきた私自身も、政治史や属州の歴史、そして帝国の衰亡史などを論じてきたが、帝国に生きた住民の「心」を正面から取り上げる研究はしてこなかった。しかし、帝国の形成、「ローマの平和」の名で知られる帝国の繁栄、そして帝国の衰亡など、ローマ史研究の重要なテーマはいずれも、事象の分析だけでなく、その時代を生きた人々、有名な個人だけでなく一般住民も含めて、彼らの「思い」も解明しなければ真の歴史像構築には至らないのではないか。私は近年、そう強く感じるようになった。本書は、こうした問題意識の下、ローマ人の生き方や考え方、そして感じ方などを追求しようとする私の初めての、ささやかな挑戦である」。
本書は、序章、全5章、終章、エピローグなどからなる。第Ⅰ章「ローマ人はどんな世界に生きていたのか」では、「ローマ人の生き方や考え方、そして感じ方などを考察するための前提的知識となる情報を整理したい。この本の主たる舞台はローマ帝国の最盛期となるので、この時期を中心に社会の仕組みと都市に暮らすローマ市民の日常生活、そしてその一生を概観しよう。まず、ローマ人の歴史の全体を眺めることから始めたい」。
第Ⅱ章「帝国エリートたちの生きざま」では、「元老院議員ら帝国エリートの生き方や生きがいに関する考え方、感じ方をみて」、つぎのように最後のパラグラフでまとめている。「歴史とは記録の集積である。その意味で、最盛期のローマ帝国は膨大な記憶を貯め込んだ「記憶の帝国」と呼んでよい状態にあった。帝国エリートの生きざまも生きがいも帝国のこうした性格に即して形づくられ保持されたといってよいだろう」。
第Ⅲ章「生と死から見る家族の肖像」では、「対象とする社会層を拡大して、ローマ社会に暮らす「普通の人々」のケースを検討してみたい。最盛期ローマ帝国の住民は、都市市街地か田園地帯かなど居住環境の違い、出自、経済力、威信の有無や信仰などの点で異なる、実に多様な人々であり、また「普通の人々」とか「庶民」というような範疇はあまりにも曖昧で、歴史学研究のための分析概念としては到底使えない。しかし、ローマ帝国の世界史的意義が先進的な都市的生活の創造に認められてきた点を考慮し、ここでは資産のある都市上層市民から首都の下層住民まで、最盛期ローマ帝国の都市に生きた人々をやや広く「普通の人々」と捉えて観察したい」。
第Ⅳ章「属州の人々の心」と第Ⅴ章「平穏な帝国の暮らし」では、「帝国は支配地域を統合し得たのかという」「大問題を遠望しつつ、身近な問いを考察したい。ローマ帝国のイタリアの外の支配領域、すなわち属州において、人々は自分たちの暮らしや生きることに関してどのように考え、感じていたかを問いたいのである」。その結果、第Ⅳ章では「彼らのアイデンティティを、「ローマ人」か「ガリア人」かというような単純な二項対立ではなく、多様性と重層性を検討の基礎に置いて考察することの必要性を確認できた」。第Ⅴ章では、「観察したのはガリアに限られるが、この地域の人々も、したたかであるかどうかはともかく、普及してきたローマ風生活環境の中で自らの存在と生の意味を考え、支配権力におもねらない独自の生き方を作り上げていったといえそうである」と結論した。
そして、終章「帝国の危機とローマ人の心」では、つぎのようにまとめている。「人々が碑銘で自身の「心」を表現することが最盛期帝国の重要な特徴であったこと、それは「ローマ人」のアイデンティティ形成の結果であること、そして広大なローマ帝国に統合をもたらしたのがこの「ローマ人」のアイデンティティであったことである」とした。
最後に、著者は「あとがき」で、このテーマの難しさにもかからず、「挑戦」した意味を、つぎのように述べている。「本書では敢えて哲学者たちの作品を使わないことにした。この本では、哲学的で思弁的な性格の議論ではなく、「普通の」ローマ人の考え方、感じ方を問題にしたかったからである。この方針をとることによって、必然的に本書の作業は史料的に一層厳しい状態になった」。「加えて、本書を単なる生活史の本に留めたくないという、私自身の身勝手な希望もあった。「ローマ人の心」に関わる議論をしても、それがローマ帝国の特質や世界史的意義の問題に繋がらなければ、生活史のトリビアルな情報を提供するだけの本で終わってしまうことになる。ゆえに、「心」の探究に努めながらも、自分自身の研究成果と関連させつつ、議論をローマ帝国の特質や意義を問う次元へと整序する努力をしなければならなかった」。
「執筆は難渋を極め」「とくに史資料の乏しい属州住民の「心」の探究に際しては、考察が可能なトピックを探して放浪しているような状態が続き、問題点の周囲を固めるだけで精一杯で、核心にまで迫ることができずに終わってしまった箇所もある」。にもかかわらず、「刊行までたどり着けたのは」、「様々なローマ史の研究文献、とくにわが国のローマ史研究者の優れた研究成果であった」。その後につづく謝辞からも、層の厚さが感じられる。
本書を読むと、最新の研究状況を把握したうえで、執筆していることがわかるが、それは著者ひとりでできることではないだろう。マイナーなわたしの分野では、海外の書店の目録を送ってもらうことはもちろん、調査のたびに書店、大学出版会めぐりをし、地方では図書館で見つけた本をたよりに出版社に行きほかの出版物を探すという「フィールドワーク」を繰り返した。
著者が「挑戦」できたのも、碑銘などの史料が残っており、研究蓄積があったからであるが、それにもまして著者は「ローマ帝国の実相を語ることに徹し」、「帝国に生きた人々の「心」を問題にすると、時代の違いを一気に飛び越えて現代に迫ることがある」ことを知っていたからだろう。「現代日本と酷似した事情、現代人と同じような問題や苦悩」を読者が発見したなら、著者の「挑戦」は報われることになる。
長年研究をつづけていると、本や論文にはならないが書いておきたいテーマが、どこか片隅に居つづけるようになる。だが、それをかたちにできる研究者はそれほどいない。いたとしても晩年に回顧録やエッセイでメモ書きする程度だろう。著者が「挑戦」と繰り返し述べていることの意味がわかると、一書にしたことの偉大さがわかってくる。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
『アジア太平洋討究』第52号(早瀬晋三教授退職記念号)、2026年1月、462頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://www.jstage.jst.go.jp/browse/wiapstokyu/list/-char/ja)
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『戦前期東南アジア海域における日本人漁業活動の基礎資料』(研究資料シリーズ12)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2026年2月、179頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる)
早瀬晋三『1912年のシンガポールの日本人社会-『南洋新報』4-12月から-』(研究資料シリーズ11)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2025年2月、159頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2004934)
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるfile:///C:/Users/shaya/Downloads/KenkyuShiryoSeries_10_02.pdf)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/78131)電子版の発行は中止。
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
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