日下渉『フィリピン-強権を求めた「新生」への希望』岩波新書、2026年4月17日、224+11頁、960円+税、ISBN978-4-00-432108-8
「はじめに」の冒頭に、「フィリピンは、アジアにおける民主主義の先進国だ」とある。だが、一般の日本人は、フィリピンが健全に民主主義を発展させてきた国だとは思っていない。著者、日下渉はつぎのように説明を加えている。「フィリピンでは、全国各地に基盤をもつ二〇〇から三〇〇ほどのエリート家族が、民主主義の制度を利用して私的利益を追求し、不平等を再生産してきた。彼らは、有権者の多くを占める貧困層を利益配分と暴力で支配し、選挙を通じて公職を独占し、国家資源を利用して富と権力を強化してきたのである」。
そして、「この「エリート民主主義」に対する人々の挑戦は、深刻な不平等によって分断され、民主主義の不安定要因になってきた」と2000年前後以降の歴史的説明をした後、現状をつぎのようにまとめている。「強権的なリーダーを求めた彼らの投票行動は、グローバルな自由民主主義の後退と連動しているかもしれない。比較政治学の知見によれば、先進国では、新自由主義、グローバル化、製造業から情報通信業への転換といった経済変動が、中間層の生活を不安定化した。その結果、彼らが保守的な価値観を強め、権威主義的ポピュリストを支持するようになったという(略)。だがフィリピンでは、新たな経済構造のもと、むしろ経済成長が続き、中間層も徐々に成長するなかで、権威主義的なリーダーが支持され、暴力さえ容認された。ここに、本書が取り組むパズルがある」。
そのパズルを解くためには、副題にある「新生」を理解しなければならない。著者は、「「新生」の希求とその逆説」の見出しのもと、まずつぎのように問いかけている。「継続的な経済成長のなかで、なぜ多くのフィリピン人が、暴力的なリーダーを支持し、かつての独裁期を美化したのだろうか。豊かさを手にし始めた人々は、なぜリベラルな価値でなく、権威主義的な価値を抱くようになったのだろうか」。つづけて、つぎのように述べている。「本書では、グローバルな新自由主義のもと台頭した「新時代のフィリピン人」の苦しみ、不満、希望に着目する。そして、彼らが、フィリピン「新生」の希望を、対抗エリートによる「変革」の約束に賭けたからだと論じる。対抗エリートとは、暴力、法律の知識、メディアでの知名度などを通じて戦後に台頭し、大地主の伝統的エリートに挑戦してきた勢力である」。
そして、この見出しを、つぎのように結んでいる。「広範な人々が、あえて自らの自由を制限する「規律」(disiplina)を重視し、フィリピンの新生と発展に寄与する「善き市民」としての自覚を深めた。これは望ましいことに思われる。だが、ここに大きなジレンマがあった。新生のためには、内部になる悪しき要素を特定し、克服する必要がある。それが自己の内部で完結すれば、社会的な影響は少ない。しかし、国民国家の新生というプロジェクトは、規律による新生を拒む「悪しき他者」を構築する。そして、この善悪の二項対立は、野心的な政治家にとって、絶好の政治資源になる。彼らは、「悪しき他者」を打破して「善き市民」の利益を実現すると訴えることで、人々の支持を集めて民主的に権力を奪取し、現在と過去の強権、国家暴力さえも正当化できるのだ」。
本書は、はじめに、全8章、おわりに、あとがきなどからなり、「本書の議論と構成」は、「はじめに」の最後にある。「おわりに」は、つぎのようにまとめられている。「新時代のフィリピン人は、新たなフィリピンを生み出すために権威主義的なリーダーを手段として利用してみたにすぎず、両者の結びつきは本質的ではない。新時代のフィリピン人が抱く希望と苦しみを表現する大衆文化は、新生の新たなヴィジョンを提示している。たとえば、人気P-POPグループSB19は、自らを構成する負の要素を排除せず、抱きかかえたままの新生を構想している」。
また、「おわりに」の最後の見出し「フィリピンの挑戦から学ぶ」を、つぎのパラグラフで結んでいる。「もとよりフィリピンの可能性は、過去の輝かしい伝統や現在の確たる制度ではなく、多様な勢力が既存の権力関係を批判し、より善き未来を求めて闘争するプロセスの中に宿っている。安心して頼れる国家と公式の秩序が不在であるがゆえに、人々は苦しみながらも自らの力で社会秩序を生み出し、望ましきフィリピンを実現しようと希望を持って不完全な民主主義に参加してきた。たしかに、その情熱が常に望ましい方向に向けられてきたわけではない。だが、社会の諸問題を自らのものとして捉え、試行錯誤しながら、より公正で豊かなフィリピンを築いていこうとする彼らの実践には、市民による自己統治という民主主義の根源的な可能性が宿っている」。
本書の主題は「フィリピン」であり、著者は地域研究者である。わたしもかつてはフィリピン地域研究者であったが、著者の現在の年齢のころにはやめていた。やめた理由は、できなくなったという消極的なものと、さらなる発展を求めての積極的なものの両方があった。
できなくなり、「新時代のフィリピン人」がわからなくなったのは、フィリピンでの現地調査を繰り返し、情報を収集する時間的、体力的余裕がなくなったためである。フィリピン関係の書籍、論文を海外、国内で収集するのに疲れた。加えて、フィリピン以外のテーマで論文を書く学生・大学院生の指導のために「勉強」する必要があった。それは、この書評ブログで取りあげた書籍を見れば学生・大学院生のテーマの一端がわかるだろう。だが、それらだけではない。研究者は、自身が本格的に研究をはじめたころの時代を背景に研究を続ける。わたしの場合、1984年に提出した博士論文が基点となる。本書第2章「争われる民主主義」「2 ナショナルな発展の模索」の「マルコスの開発独裁」「ピープル・パワーによる民主化」の時代で、第4章「ドゥテルテ家に見る対抗エリートの台頭」「2 ダバオの社会史」で取りあげられているダバオ市の殺人件数が頂点に達した1985年前後にフィールド調査をおこなった。インタビュー調査では、まず最初に「戦前」のことだと強調した。時事問題を訊くことは命にかかわり、数十メートルおきのチェックポイントを何度も通過しながらの調査だった。その基点の延長線上で、「新時代」のフィリピン人が理解できなくなったのが、フィリピン地域研究をやめた最大の原因だった。同じころ調査をした野村進の『フィリピンと日本人』(ちくま新書、2026年)が1986年の「マルコスの亡命」でおわり、1989年以降が駆け足でわずか1頁で終わっているのがよくわかる。
積極的な意味では、フィリピンのことがフィリピンだけを研究対象としていてはわからなくなったためである。とくに前近代からフィリピン南部を中心に海域東南アジアという枠組みで研究してきたため、ナショナル・スタディーズでの研究の限界が日増しに高まった。本書で強調して取りあげられている「麻薬」にしろ「汚職」にしろ、キリスト教が浸透したフィリピン社会の独自性はあるものの、海域世界に属するという共通点があり、ほかの東南アジア諸国でも深刻な問題である。1967年にASEAN(東南アジア諸国連合)が成立し、2015年にASEAN共同体にまで発展した近隣諸国との関係抜きにフィリピンのことはわからないように思えてきた。ASEANを通してフィリピンを相対化する必要を感じた。
副題に「希望」とあるが、「フィリピン人の優しさと逞しさ」「つながりに基づく創造的な狡知でしたたかに乗り越えていく方途」を知らない者に、なかなか伝わらないもどかしさがある。フィリピンになじみのない人びとに、どう伝えるか、フィリピンの現状から「民主主義の先進国」のイメージがないだけに、課題は多々ある。また、著者が「かつて自分の愛したフィリピンが急速に失われている」と感じるようになった現在、「新時代」の先のフィリピン人を本書の延長線上で理解できるのか。社会科学だけではわからない地域の研究者の腕の見せどころである。
※ 大阪府豊中市(千里中央)に転居しました
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
『アジア太平洋討究』第52号(早瀬晋三教授退職記念号)、2026年1月、462頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://www.jstage.jst.go.jp/browse/wiapstokyu/52/0/_contents/-char/ja)
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三『戦前期東南アジア海域における日本人漁業活動の基礎資料』(研究資料シリーズ12)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2026年2月、179頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2007415)
早瀬晋三『1912年のシンガポールの日本人社会-『南洋新報』4-12月から-』(研究資料シリーズ11)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2025年2月、159頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2004934)
早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるfile:///C:/Users/shaya/Downloads/KenkyuShiryoSeries_10_02.pdf)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/78131)電子版の発行は中止。
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
コメント