増田弘『南方からの帰還-日本軍兵士の抑留と復員』慶應義塾大学出版会、2019年7月30日、262頁、2700円+税、ISBN978-4-7664-2609-0

 「一九四五(昭和二〇)年八月十五日、この終戦の日をもって長い戦争が終わり、日本に平和が訪れたと誰もが考える。しかし、はたしてそれは正しい理解であろうか。決してそうとは思われない」という文章から、本書ははじまる。

 そして、つぎのようにつづいている。「なぜなら当時外地にあった邦人、陸海軍軍人約三五〇万名、一般民間人約三〇〇万名、併せて約六五〇万名にとって、この日はいわば第二の戦争開始に等しかったからである。連合軍に降伏した日本軍将兵にとっては、この日を境に、フェンスに囲まれた捕虜生活と重労働が始まったわけであり、また〝棄民〟とされた民間人は、祖国をめざした命がけの逃避行を余儀なくされたからである。その数は当時の国民総人口のほぼ一割にも達した」。さらに、その「ほぼ一割」を待つ家族がいたことを考えると、本書で語ろうとしていることが、いかに戦後の人びとの生活に大きく関わっていたかがわかる。だが、その実態はほとんど明らかになっていないという。

 本書の内容は、表紙見返しのつぎの文章からわかる。「南方日本軍兵士の復員への道のりはなぜ遠かったのか?抑留や強制労働の実態は、イギリス、オランダ、オーストラリア、アメリカなどのそれぞれの国軍の管轄下で大きく異なっていた」。「これまで個人の手記のかたちで広く伝えられてきた未だ謎の多い南方日本軍兵士の抑留と復員について、本書では、当時の外交史料も用いながら、抑留・強制労働・復員の全体像を明らかにしていく」。

 抑留といえば、シベリアが有名だが、シベリア抑留者約六〇万にたいして、南方抑留者は軍人・民間人を含めて一二〇万以上に及ぶ。にもかかわらず、これまで等閑視されてきた理由を、著者増田弘は「資料上の制約にあった」として、つぎのように説明している。「東南アジアのほぼ全域を占領管理して日本人の抑留を主導したのはイギリスであり、ほかには蘭印(現インドネシア)に戻ったオランダ、東部ニューギニアおよび豪北地域を管轄したオーストラリア、そしてフィリピンを奪回したアメリカの計四カ国が深く関与した。それゆえ、これら四連合国の一次資料に基づく抑留研究が不可欠であったが、これまでほとんど実施されてこなかった」。「つまり、一体どのように英・蘭・豪・米の各軍が降伏時に日本軍人や民間人を拘束したのか、またどのような方法で強制労働や戦犯裁判を行ったのか、さらに一体どのように日本への帰還を進めたのか、といった主体者側の基本政策や方針や姿勢など、まったく不透明であった」。

 本書は、序章「抑留・復員問題にどう向きあうか」、四連合国それぞれの4章、終章「双方向からとらえた抑留・復員・帰還」からなる。第一章「ビルマ・タイ・マレー・シンガポールでの抑留と復員-イギリス軍管轄下」では、「イギリスが終戦後に管轄したビルマ、マレー、シンガポール、タイにおける日本人の抑留から帰還までを描く。現地の英軍側は、日本軍を「戦争捕虜(POW=Prisoner of War)」とは認めず、単なる「日本[人]降伏者(JSP=Japanese Surrender[e]d Personnel)」と見なして無賃金・無報酬労働を強要し、しかも南方軍七〇余万名の八割強を帰還させる一方で、二割弱の一〇万名を残留させ、現地の多様な再建事業に従事させた」。

 第二章「インドネシアでの抑留と復員-オランダ軍管轄下」では、「オランダが管轄したインドネシア(当時は蘭印)における二三万余名の日本人の抑留から帰還までを明らかにする。オランダは第二次世界大戦の終結から半年後に現地に復帰し、イギリスから管轄権を継承したものの、すでに現地ではオランダからの独立機運が高揚していた。降伏した日本軍の中にも、部隊を離脱してスカルノ(Sukaruno [Sukarno])らの現地民族軍に参加する将兵も現れ、それが日本人の抑留全体に多大な影響を及ぼした」。

 第三章「東部ニューギニア・豪北での抑留と復員-オーストラリア軍管轄下」では、「オーストラリアが管轄した東部ニューギニアと豪北にいた日本人、約二〇万名の抑留から帰還までを明らかにする。ニューギニア戦線では日本軍は敗退を続け、ジャングル地帯で倒れる将兵が続出したが、他方、ラバウルを拠点とするニューブリテン島周辺の豪北地域では、すでに戦闘が終結していたために比較的平穏な終戦を迎えた」。

 第四章「フィリピンでの抑留と復員-アメリカ軍管轄下」では、「アメリカが管轄したフィリピンにおける日本人一二万余名の抑留から帰還までを対象とする。イギリスと比較して、日本軍人の復員ばかりでなく民間人の引揚にも熱心に取り組んだアメリカではあったが、激戦地フィリピンでは日米両軍はもとより、フィリピン人にも甚大な犠牲と被害をもたらしたため、現地での日本人に対する憎悪や反発は激しいものがあった」。

 本書は、各章の「おわりに」でまとめ、「終章」で本書全体をまとめてくれているので、理解の助けになり、たいへんありがたい。「終章」では、以下の6点にまとめている。「第一に、これまで終戦史における日本人抑留といえば、まず北方のシベリア抑留に焦点が当てられがちであったが、今回の研究を通じて、東南アジア地域(ビルマ、タイ、マレー、シンガポール、インドネシア、ニューギニア・豪北、フィリピン)の南方抑留も、北方のそれに劣らず、深刻な状況に置かれていたという点である」。

 「第二に、日本人を抑留した連合国側には、捕虜への処遇や収容所生活の運営方法、あるいは強制労働に対する方針にかなりの相違があった点である。概して英国やオランダは日本人に対して厳しい姿勢で臨んだ」。

 「第三に、米国は戦犯裁判にきわめて熱心であり、フィリピンにおける日本人戦犯の調査・摘発や裁判に積極的姿勢を示した」。

 「第四に」、「復員政策や帰還方針にも連合国間に明らかな差異が生まれた。現地英軍は、米国政府と軍部、とくにマッカーサーからの圧力を再三受けながらも、執拗に日本人残留にこだわり、強制労働の使役に力を注いだ。ロンドンの英国政府も外務省を例外として、現地側の主張や要望を追認した。インドネシアの蘭国政府もまた英国側に同調した」。

 「第五に、国際情勢がこの抑留・復員問題に様々な影響を及ぼした点である」。「米国とマッカーサーが早期復員に取り組んだ背後にはヒューマニズムがあったが、他面、戦後まもなく発生した米ソ冷戦が深く影を落としていた」。「英国は、数世紀に及ぶ東南アジア支配によって現地社会に深く根を下ろしており、旧宗主国の立場から米国のような明白な方針に与することができなかった。オーストラリアもオランダもその点では共通していた」。

 「最後に、被抑留者という弱い立場にあった日本は、様々な労苦と苛酷な経験を通じて多くの教訓を学んだ。戦時当初に東南アジアを席捲して占領行政を開始した日本ではあったが、結局インドネシアを例外としてすべて失敗に終わった」。「英蘭両国のような植民地支配の習熟ぶりと比較して、未熟さを露呈したのである。最悪の事例がフィリピン統治であり、その不備が現地民衆の離反をもたらし、敗戦後、日本人は現地側からの激しい怒りにさらされた」。

 そして、つぎのように、「終章」を結んだ。「総じて、戦後の抑留・復員問題は、日本側の視点だけではなく、勝者の連合国側からの視点を双方併せることで、初めて客観的事実を生み出せることが明らかになった。それに加えて、今こそ終戦史を戦後史から分離独立させて、抑留・復員・帰還という特異な時代を昭和史に刻む時ではなかろうか、と改めて実感する」。

 戦後の抑留・復員問題が注目されなかった理由は、敗戦後処理で、敗残の兵に関心がなかったからだろう。そして、管轄国だけでなく、抑留場所、責任者、現地の人びとの対応など、千差万別で、まとめて語ることができなかったからだろう。その点で、本書で大枠がつかめ、個々の研究がしやすい状況になったことは、大いに評価すべきである。

 捕虜の「強制労働」ひとつとっても、日本人捕虜が労働している同じ現場に、いつでもやめられる一般の労働者だけでなく、日本軍についてきて戦後行き場を失った者など、さまざまな人びとが入り乱れていた。戦時、戦後の「労働者」は、朝鮮人徴用工や従軍慰安婦などのように、強制かどうかひじょうにあいまいな部分がある。また、賃金の支払いについても、戦後に改めて請求できるものかどうかはっきりしない。本書で取り上げられた日本人捕虜の「強制労働」も請求できるのだろうか。とくに敗戦後処理では、弱い立場から当時は請求できなかった可能性が高い。いろいろ考えていくと、戦争をはじめる者は、このような敗戦後処理を含めて、すべてを考えてからしろ!、と叫びたくなる。すべてを考えれば、だれも戦争をはじめることに賛同などしない。