上田信『死体は誰のものか-比較文化史の視点から』ちくま新書、2019年5月10日、233頁、800円+税、ISBN978-4-480-07224-5

 著者の上田信より年上であるが、両親が死んでからも著者のように「自分自身の死に方を思い、そして死後に残される「死体」について考えるようになった」ということは、わたしにはなかった。二男の気楽さ故、また妻が5歳下故、自分が喪主になることを想定したことがない。自分がこの世に生きた証は、著書が何冊か図書館にあり、永久に存在すると勝手に思い込んでいる。死体も、妻が勝手に決めればいいと思っている。つまり、著者が、「はじめに-日常のなかの死体」の最後で述べている「本書が、誰もが頭を悩ませる「死」の問題を考える際の一助となれば幸いである」があてはまらず、頭を悩ませることにならないことを願う。でも、もしそのときがきたら、本書を思い出すだろう。

 本書の目的は、表紙につぎのように書かれている。「価値が多様化する時代において、死後の自らの身体の処理のあり方を、慣習の枠、社会通念、伝統的習俗の枠を越えて考えなければならないだろう。本書では比較文化史という視点から、私たちは死体にどのように向かい合ったらよいのか、その手がかりを探っていきたい」。

 具体的に問うことについては、表紙見返しにつぎようにまとめられている。「死体を忌み嫌い、人の目に触れないようにする現代日本の文化は果たして普遍的なものなのだろうか。中国での死体を使った民衆の抵抗運動、白骨化できない死体「キョンシー」、チベットの「鳥葬」や悪魔祓い、ユダヤ・キリスト教の「復活」「最後の審判」、日本の古典落語に登場する死体、臓器移植をめぐる裁判。様々な時代、地域の例を取り上げ、私たちの死体観を相対化し、来るべき多死社会に向けて、死体といかに向き合うべきかを問い直す」。

 本書は、はじめに、全5章、おわりに「私の死後に残される死体」、あとがき、からなる。第一章「武器としての死体-中国」では、「中国貴州省甕安(おうあん)県で二〇〇八年六月に起こった、「甕安騒乱」と呼ばれる、死体をめぐる公権力と民衆との衝突をきっかけとし、中国における死体による恐喝や抗議行動などから見えてくる独特の死体観について考える」。

 第二章「滞留する死体-漢族」では、「中国の死体をめぐる儀礼に注目する。ここでは儒教の伝統に基づいた儀式を分析し、その儀式が誤った形で行われた際、死体が恐ろしい存在となることを示す。その例として、「キョンシー」というキャラクターで有名な映画『霊幻道士(れいげんどうし)』などを取り上げる」。

 第三章「布施される死体-チベット族」では、「チベットにおける「天葬」と「水葬」という二つの特徴的な葬儀、そしてチベットに古来伝わるポン教の悪魔祓いの儀式「チャム」を取り上げ、生の循環を大切にするチベットの人々の死生観を浮き彫りにする」。

 第四章「よみがえる死体-ユダヤ教とキリスト教」では、「ユダヤ教とキリスト教の死体観について考える。ユダヤ教独特の死体の洗い方や、キリスト教に見られる「復活」の奇跡、「最後の審判」のときに死体がどうなるかなど、この二つの宗教の根幹にある死体観を読み解く」。

 第五章「浄化される死体-日本」では、「日本人がどのように死体を扱ってきたかを問いなおす。『古事記』に記されたイザナミのゾンビ化に始まり、各地に見られる「もがり」と呼ばれる風習。古典落語での死体の扱い方など、様々な例をもとに、日本人の死体観を考える。また、本章の後半では、死体をめぐる様々な裁判の判例を紹介し、死体が誰の「もの」なのか、という本書のタイトルにもなった問いを追求する」。

 そして、著者は身近に考えてもらうために、「父の死」「母の死」と身内を俎上にあげ、最後は自分自身の死後について考える。60歳を超えた著者が臓器移植できるのは腎臓、肺、肝臓くらいで、「残った遺骨は、できれば自然葬を希望する」と「おわりに」を結んでいる。