小谷汪之『中島敦の朝鮮と南洋-二つの植民地体験』岩波書店、2019年1月17日、222+4頁、2400円+税、ISBN978-4-00-028386-1

 「シリーズ 日本の中の世界史」は、つぎのような目的で企画されたことが「刊行にあたって」で説明されている。「今日、世界中の到る所で、自国本位(ファースト)的な政治姿勢が極端に強まり、それが第二次世界大戦やその後の種々の悲惨な体験を通して学んださまざまな普遍的価値を否定しようとする動きにつながっている。日本では、道徳教育、日の丸・君が代、靖国といった戦前的なものの復活・強化から、さらには日本国憲法の基本的理念の否定にまで行き着きかねない政治状況となっている」。

 「私たちは、日本の中に「世界史」を「発見」することによって、日本におけるこのような自国本位(ファースト)的政治姿勢が世界的な動きの一部であることを認識するとともに、それに抗する動きも、世界的関連の中で日本のうちに見出すことができると確信している。読者のかたがたに、私たちのそのような姿勢を読み取っていただければ幸いである」。

 「主としてインド史を研究対象とする」著者、小谷汪之が、本書を書くことになったきっかけについて、「高校時代に中(なか)島(じま)敦(あつし)の小説「光と風と夢」を読んで、強く心惹かれ」、大学院生だった1967年にサモアを訪れたから、と「プロローグ」で説明している。

 本書の目的は、つぎのように述べられている。「私の関心はポリネシアのサモアからミクロネシアのヤルート島、そこからさらに西にポナペ島、トラック諸島、パラオ諸島などへと広がっていった。その関心の中心には、日本による南洋群島統治とそこにおける中島敦の存在という問題があった。南洋群島は実質的には日本の植民地で、中島は一植民地官僚としてそこに一年弱在任していたのである。その間に、中島は何を感じ、何を考えたのか」。

 そして、「刊行にあたって」で説明された「戦前的なものに回帰しようとする「復古主義」的な動きが極端に強まってきている」なかで、「二〇世紀の前半に多くの日本人が植民地支配とかかわったということの意味を問い直すために、日本人の植民地体験を追体験してみたい、という思いが強く湧いてきた。それも、満洲移民のような極限的な植民地体験ではなく、多くの日本人が体験したような、「日常的な」植民地体験を追体験してみたいと思ったのである。中島敦の二つの植民地体験を本書の主題としたのはそのためである」。

 「しかし、中島敦には南洋体験以前に、朝鮮での植民地体験があった」ため、「第Ⅰ章 中島敦の朝鮮(一九二二-三三年)」からはじめ、「第Ⅱ章 南洋庁編修書記、中島敦(一九四一-四二年)」「第Ⅲ章 「光と風と夢」-サモアのスティーヴンソンと中島敦」「第Ⅳ章 南洋に生きた人びと」「第Ⅴ章 中島敦の南洋」とつづけ、「エピローグ-植民地体験の追体験」でまとめている。

 「エピローグ」で、著者は朝鮮と南洋とで大きな違いがあることを、つぎのように説明している。「中島の「朝鮮もの」と、「南洋の日記」や南洋からの手紙との間の本質的な違いは、「朝鮮もの」が反芻された朝鮮体験の表現であるのに対して、「南洋の日記」や南洋からの手紙は「生(なま)」のままの南洋体験の表現であるという点にある」。「そこには中島が日本から携えていった月並みな「南洋の土人」像がそのまま入り込んでいた。そこに、両者の間の本質的な違いが存在する」。

 最後に、著者は「一つ疑問が残る」と述べ、「中島は、南洋庁職員として、日本帝国主義の植民地支配(南洋群島統治)に直接荷担した自分自身の存在をどう考えていたのであろうか」と問うている。そして、つぎのように解釈して「エピローグ」を終えている。

 「たしかに、中島が病弱のために南洋統治にほとんど役立たなかったこと、南洋庁の役人たちの間で孤立して、疎外感を強くもっていたこと、これらのことが中島の「植民地的権力関係」への「共犯」の意識を弱めていたということは、ある程度、いえるであろう。中島の「南洋の日記」や南洋からの手紙、あるいは「南洋もの」には、自らの「植民地的権力関係への共犯性」を自覚していたことを示す明白な表現は見当たらない。しかし、南洋群島の「近代化」に懐疑的であった中島には、日本の南洋群島統治は「未開」の人びとを「文明化する使命」civilizing missionを担っている、といった考え方もなかった。中島には、南洋群島統治(植民地支配)を正当化する論理もなかったのである。だから、中島のうちに、自らを「植民地的権力関係への共犯性から無罪化」しようとする主体的意思まで読み取ろうとするならば、それは行き過ぎというべきであろう」。

 日本が「支配した」南洋群島の総人口は、129,104人(1939年12月末現在)、その内訳は、日本人(台湾人・朝鮮人を含む)77,257人、島民(チャモロ人・カナカ人)51,723人、外国人124人であった。日本人が多数を占めるなかで、島民は周辺に追いやられ、日本人には主体的に生活する島民の姿が見えなくなっていった。中島の「南洋の土人」像も、見えなかったからこその「生」であった。そこには、「自国本位」の現在につながるものがある。