坂野徹『<島>の科学者-パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』勁草書房、2019年6月20日、356+30頁、4700円+税、ISBN978-4-326-10274-7
本が執筆できるかどうか、いろいろな偶然がつきまとう。本書の「あとがき」では、この研究テーマに出会った偶然と、研究所に勤めた研究者の同窓会誌(『岩山会会報』18号)が閲覧できたことが語られている。いい資料に出会うと、その資料を活かしたものが書きたくなる。だが、資料を活かすだけの力量のある研究者はそれほど多くない。著者、坂野徹が活かせたのは、それまでの研究の蓄積と共同研究をおこなってきたからだろう。
本書「プロローグ <島>にわたった科学者たち」の冒頭で、著者はつぎのように述べている。「本書は、戦前、日本の統治下に置かれたミクロネシアの島々-当時は南洋群島、内南洋(裏南洋)などと呼ばれた-で調査研究をおこなった日本の研究者(科学者)の群像と、彼らが経験した<島>での研究生活を描こうとするものである」。
著者は、本書の3つの課題を挙げ、それぞれつぎのように説明している。「本書でまず考えてみたいのは、日本統治下のミクロネシアを調査研究のために訪れた研究者にとっての現地経験の意味である。彼らは、内地とは大きく異なる熱帯の島々で、その自然や人間、社会を対象にそれぞれの調査や研究をおこなった。帝国日本の研究者はミクロネシアで一体何を調べようとしていたのか。そして、現地で調査研究をおこなった経験は、彼らの人生にとっていかなる意味をもったのか。かかる研究者のミクロネシア経験の意味について考えるのが本書の第一の課題となる」。
「次に本書で考えたいのが、戦前、ミクロネシアで実施された調査研究とそれを取り巻く政治状況との関係である。先に述べたとおり、日本のミクロネシアにおける学術調査は海軍による占領直後から始まったが、ミクロネシア(南洋群島)は、当時、外南洋(表南洋)と呼ばれた東南アジア地域への進出の拠点ともみなされ、ミクロネシアで経験を積んだ研究者は、アジア・太平洋戦争中、東南アジア占領へも動員されていく。このようなミクロネシアをめぐる知の政治性について考えること。これが第二の課題である」。
「そして、本書のもうひとつの関心は、研究者の目を通してみた、当時のミクロネシア社会そのものにある。戦前、ミクロネシアを訪れた研究者の多くは、自らの研究テーマにもとづく論文や著作にとどまらず、紀行文や調査日誌などの詳細な記録を残しており、そこには現地住民やミクロネシアに暮らす日本人-多くは沖縄からの移民労働者であった-の姿が書き記されている。研究者が書き残した、一見些末にもみえるさまざまな記録を通じて、植民地状況下にある二十世紀前半のミクロネシア社会とそこに生きる人びとの姿を描き出すこと。これが本書の第三の課題となる」。
本書は、プロローグ、全11章、エピローグ、あとがき、からなり、プロローグの最後で、「本書の構成」をつぎのようにまとめている。「前半の第一章から第四章では、主としてパラオ熱帯生物研究所創設以前におこなわれたさまざまな学問分野の調査研究を検討する」。「本書が特に注目するパラオ熱帯生物研究所(一九三四-四三年)の活動と、研究所周辺における調査研究の展開について考えるのが、続く第五章から第九章までである」。
そして、第十章「パラオから遠く離れて-パラオ研関係者のアジア・太平洋戦争」では、「戦時下におけるパラオ研関係者の活動に検討をくわえる。多くが若手だったパラオ研の研究員のなかには徴兵された者もいるが、ここで特に注目したいのは、ミクロネシアでの経験を買われて、日本軍の東南アジア占領にかかわった研究者である」。「以上をふまえて、帝国日本の南洋研究の遺産と、戦前、ミクロネシアで調査研究に携わった研究者の「戦後」について検討するのが第十一章[<島>が遺したもの-南洋研究と岩山会の戦後]とエピローグ[科学者が歴史を記録するということ]である。およそ三十年に及ぶ帝国日本の南洋研究の成果は戦後社会にどのように伝えられたのか。かつてミクロネシアで調査研究を実施した研究者、なかでもパラオ研の元研究員はいかなる後半生を送ったのか。そして、彼らはもはや帰ることのできない<島>での日々をどのように振り返っていたのか。こうした問題について本書の最後で考えたい」。
残念ながら、著者は3つの課題の結論について、まとめたものを書いていない。研究者は帝国日本に利用されたが、研究者も帝国日本を利用して研究していたことが本書からわかる。そして、研究者は現地社会にたいして甚だしい偏見をもっていたことが、所員と現地女性の恋愛からわかる。「島民の女を相手にすることは統治に害ありとして罪悪視」され、所員のひとりと首長の娘とが恋仲になったことを知った所長は、激怒し、研究所の紀要に論文を発表することを禁じたという。そして、「乱脈を極めていること」にたいして「粛正」した。また、「文化の低い沖縄移民」が多く入ってきたことを、「「島民」が邦人に対し尊敬の意を表さなくなった」一因と考える者もいた。このようななかで、第三の課題であった「ミクロネシア社会とそこに生きる人びとの姿を描き出すこと」は、『岩山会会報』を通しては無理だっただろう。
本書「プロローグ <島>にわたった科学者たち」の冒頭で、著者はつぎのように述べている。「本書は、戦前、日本の統治下に置かれたミクロネシアの島々-当時は南洋群島、内南洋(裏南洋)などと呼ばれた-で調査研究をおこなった日本の研究者(科学者)の群像と、彼らが経験した<島>での研究生活を描こうとするものである」。
著者は、本書の3つの課題を挙げ、それぞれつぎのように説明している。「本書でまず考えてみたいのは、日本統治下のミクロネシアを調査研究のために訪れた研究者にとっての現地経験の意味である。彼らは、内地とは大きく異なる熱帯の島々で、その自然や人間、社会を対象にそれぞれの調査や研究をおこなった。帝国日本の研究者はミクロネシアで一体何を調べようとしていたのか。そして、現地で調査研究をおこなった経験は、彼らの人生にとっていかなる意味をもったのか。かかる研究者のミクロネシア経験の意味について考えるのが本書の第一の課題となる」。
「次に本書で考えたいのが、戦前、ミクロネシアで実施された調査研究とそれを取り巻く政治状況との関係である。先に述べたとおり、日本のミクロネシアにおける学術調査は海軍による占領直後から始まったが、ミクロネシア(南洋群島)は、当時、外南洋(表南洋)と呼ばれた東南アジア地域への進出の拠点ともみなされ、ミクロネシアで経験を積んだ研究者は、アジア・太平洋戦争中、東南アジア占領へも動員されていく。このようなミクロネシアをめぐる知の政治性について考えること。これが第二の課題である」。
「そして、本書のもうひとつの関心は、研究者の目を通してみた、当時のミクロネシア社会そのものにある。戦前、ミクロネシアを訪れた研究者の多くは、自らの研究テーマにもとづく論文や著作にとどまらず、紀行文や調査日誌などの詳細な記録を残しており、そこには現地住民やミクロネシアに暮らす日本人-多くは沖縄からの移民労働者であった-の姿が書き記されている。研究者が書き残した、一見些末にもみえるさまざまな記録を通じて、植民地状況下にある二十世紀前半のミクロネシア社会とそこに生きる人びとの姿を描き出すこと。これが本書の第三の課題となる」。
本書は、プロローグ、全11章、エピローグ、あとがき、からなり、プロローグの最後で、「本書の構成」をつぎのようにまとめている。「前半の第一章から第四章では、主としてパラオ熱帯生物研究所創設以前におこなわれたさまざまな学問分野の調査研究を検討する」。「本書が特に注目するパラオ熱帯生物研究所(一九三四-四三年)の活動と、研究所周辺における調査研究の展開について考えるのが、続く第五章から第九章までである」。
そして、第十章「パラオから遠く離れて-パラオ研関係者のアジア・太平洋戦争」では、「戦時下におけるパラオ研関係者の活動に検討をくわえる。多くが若手だったパラオ研の研究員のなかには徴兵された者もいるが、ここで特に注目したいのは、ミクロネシアでの経験を買われて、日本軍の東南アジア占領にかかわった研究者である」。「以上をふまえて、帝国日本の南洋研究の遺産と、戦前、ミクロネシアで調査研究に携わった研究者の「戦後」について検討するのが第十一章[<島>が遺したもの-南洋研究と岩山会の戦後]とエピローグ[科学者が歴史を記録するということ]である。およそ三十年に及ぶ帝国日本の南洋研究の成果は戦後社会にどのように伝えられたのか。かつてミクロネシアで調査研究を実施した研究者、なかでもパラオ研の元研究員はいかなる後半生を送ったのか。そして、彼らはもはや帰ることのできない<島>での日々をどのように振り返っていたのか。こうした問題について本書の最後で考えたい」。
残念ながら、著者は3つの課題の結論について、まとめたものを書いていない。研究者は帝国日本に利用されたが、研究者も帝国日本を利用して研究していたことが本書からわかる。そして、研究者は現地社会にたいして甚だしい偏見をもっていたことが、所員と現地女性の恋愛からわかる。「島民の女を相手にすることは統治に害ありとして罪悪視」され、所員のひとりと首長の娘とが恋仲になったことを知った所長は、激怒し、研究所の紀要に論文を発表することを禁じたという。そして、「乱脈を極めていること」にたいして「粛正」した。また、「文化の低い沖縄移民」が多く入ってきたことを、「「島民」が邦人に対し尊敬の意を表さなくなった」一因と考える者もいた。このようななかで、第三の課題であった「ミクロネシア社会とそこに生きる人びとの姿を描き出すこと」は、『岩山会会報』を通しては無理だっただろう。
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