中坪央暁『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』めこん、2019年8月25日、525頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0317-5
「私たちが陰鬱な気分になるのは、軍事政権の弾圧に抗して民主化を勝ち取ったミャンマーの人々、アウンサンスーチー氏を信じて闘った人々、私たちも共感し応援した人々が、ロヒンギャに対しては人権意識も法秩序もかなぐり捨て、自分たちを圧迫していた国軍による少数民族弾圧に賛同ないし加担しているという甚だ救いのない現実への幻滅と失望なのだと思う。あるいは、私たちはこの国の本質を実は何も分かっておらず、民主化の幻想に惑わされていただけなのかもしれないが」。
本書「第7章 遠のく帰還-解決の道はあるのか」のなかの著者のことばである。問題の根幹に、「民主化」されても国軍の権力は憲法上保証され、大統領を超えた権限をもつ国家顧問のアウンサンスーチーの及ばないところにある、ということがある。「アウンサンスーチー国家顧問の主導でロヒンギャ政策が転換される可能性は皆無である」と言い切る者もいる。
日本のミャンマー研究者のひとりの上智大学の根本敬は、つぎのように述べている。「前向きな進展は期待できない。国軍の権限を制約する方向での憲法改正に対し、国軍の反対の意思は非常に強固であり、改憲論議が進まないまま総選挙に突入すると考える。少数民族に関する改憲も『真の連邦制』をめぐる定義が少数民族組織の側と国軍で一八〇度異なり、NLD[国民民主連盟]政権はその板挟みになっているため、調整に取り組む姿勢は見せ続けるだろうが、具体的進展はほぼゼロに終わるだろう」。
ロヒンギャ人が難民になる事態は、1970年代から繰り返し起こっているが、爆発的に発生したきっかけは、2017年8月25日未明にロヒンギャの武力勢力数百人が警察施設など約30ヶ所を一斉に襲撃したことだった。それにたいして、ミャンマー国軍はロヒンギャ掃討作戦を発動し、「警察と国境警備警察、仏教徒のラカイン人民兵などが加わって村々を焼き払い、女性や子供、高齢者を含む無抵抗のロヒンギャ住民を殺害した。最初の一カ月間だけで少なくとも六七〇〇人が殺害され(NGO「国境なき医師団」推計)、国連調査団報告によると、八月下旬以降の犠牲者の総数は控えめに見積もっても一万人に上る。死者を約二万五〇〇〇人と推計する調査報告もある」。1990年代から滞留する「古株」20~30万の難民に「新参」74万5000が加わって、100万人になった。
本書は、全7章からなり、著者、中坪央暁は、「プロローグ」の最後で、本書の目的をつぎのように述べている。「ロヒンギャ問題とは何か、あの日何が起きたのか、解決の道はあるのか、そして日本に何ができるのか-。その全体像を描き、未来を正確に見通す力量など持ち合わせていないが、せめて傍観者による論評でも報道でもなく、学術研究でもなく、ロヒンギャ難民に直接関わる当事者のひとりとして、できる限り難民キャンプの内側から世界を眺めてみたい。そこで見えてきたものを、この未曽有の人道危機に心を寄せる皆さんと共有できればと思う」。
本書は、プロローグ、全7章、9つのコラム、あとがきからなる。各章のタイトルは、つぎの通りである:「第1章 ロヒンギャとは誰か-迫害の歴史」「第2章 少数民族弾圧-繰り返される難民流出」「第3章 大惨事の発生-2017年8月25日」「第4章 渦巻く非難-アウンサンスーチーの沈黙」「第5章 難民キャンプの日々-過酷な楽園」「第6章 人道支援の現場-国際社会の役割」「第7章 遠のく帰還-解決の道はあるのか」。
「あとがき」で、著者は「もうひとつ大それた試み」があったことについて、つぎのように述べている。「人道支援とアカデミズム、ジャーナリズムのささやかな融合である。これまでアジアやアフリカの現場を歩いて常々考えていた自分なりの課題であり、それぞれの視点と手法を〝良いとこ取り〟して、松花堂弁当のように盛り込み、誰にでも受け入れられる形でロヒンギャ問題を広く発信したいと目論んだが、全部が中途半端になってしまったことは本人が一番自覚している」。この「大それた試み」は、1963年生まれの著者の経歴を見ればわかる。「毎日新聞ジャカルタ特派員、東京本社編集デスクを経て、国際協力分野のジャーナリストに転じる。アフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争のほか、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島紛争・難民問題、平和構築の現場を継続取材。2017年12月以降、国際NGO「難民を助ける会」(AAR Japan)バングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に携わる」。
いま「大それた試み」に必要なのは、人道支援とアカデミズム、ジャーナリストのあいだの、それぞれの成果を理解し実行に移すための「翻訳者」である。とすると、著者に必要なもうひとつの肩書きは「学術博士」であろう。キーワードは、「普通の感覚」である。ミャンマー国軍、国民、アカデミズム、ジャーナリズム、人道支援に携わる人びと等々、それぞれの「普通の感覚」が違っているかぎり対話は生まれず、解決の道は閉ざされたままである。それぞれの「普通の感覚」を近づけ、対話のための共通の基盤(利益)を見つける「翻訳者」が必要で、著者はその「翻訳者」になる可能性がある。
本書「第7章 遠のく帰還-解決の道はあるのか」のなかの著者のことばである。問題の根幹に、「民主化」されても国軍の権力は憲法上保証され、大統領を超えた権限をもつ国家顧問のアウンサンスーチーの及ばないところにある、ということがある。「アウンサンスーチー国家顧問の主導でロヒンギャ政策が転換される可能性は皆無である」と言い切る者もいる。
日本のミャンマー研究者のひとりの上智大学の根本敬は、つぎのように述べている。「前向きな進展は期待できない。国軍の権限を制約する方向での憲法改正に対し、国軍の反対の意思は非常に強固であり、改憲論議が進まないまま総選挙に突入すると考える。少数民族に関する改憲も『真の連邦制』をめぐる定義が少数民族組織の側と国軍で一八〇度異なり、NLD[国民民主連盟]政権はその板挟みになっているため、調整に取り組む姿勢は見せ続けるだろうが、具体的進展はほぼゼロに終わるだろう」。
ロヒンギャ人が難民になる事態は、1970年代から繰り返し起こっているが、爆発的に発生したきっかけは、2017年8月25日未明にロヒンギャの武力勢力数百人が警察施設など約30ヶ所を一斉に襲撃したことだった。それにたいして、ミャンマー国軍はロヒンギャ掃討作戦を発動し、「警察と国境警備警察、仏教徒のラカイン人民兵などが加わって村々を焼き払い、女性や子供、高齢者を含む無抵抗のロヒンギャ住民を殺害した。最初の一カ月間だけで少なくとも六七〇〇人が殺害され(NGO「国境なき医師団」推計)、国連調査団報告によると、八月下旬以降の犠牲者の総数は控えめに見積もっても一万人に上る。死者を約二万五〇〇〇人と推計する調査報告もある」。1990年代から滞留する「古株」20~30万の難民に「新参」74万5000が加わって、100万人になった。
本書は、全7章からなり、著者、中坪央暁は、「プロローグ」の最後で、本書の目的をつぎのように述べている。「ロヒンギャ問題とは何か、あの日何が起きたのか、解決の道はあるのか、そして日本に何ができるのか-。その全体像を描き、未来を正確に見通す力量など持ち合わせていないが、せめて傍観者による論評でも報道でもなく、学術研究でもなく、ロヒンギャ難民に直接関わる当事者のひとりとして、できる限り難民キャンプの内側から世界を眺めてみたい。そこで見えてきたものを、この未曽有の人道危機に心を寄せる皆さんと共有できればと思う」。
本書は、プロローグ、全7章、9つのコラム、あとがきからなる。各章のタイトルは、つぎの通りである:「第1章 ロヒンギャとは誰か-迫害の歴史」「第2章 少数民族弾圧-繰り返される難民流出」「第3章 大惨事の発生-2017年8月25日」「第4章 渦巻く非難-アウンサンスーチーの沈黙」「第5章 難民キャンプの日々-過酷な楽園」「第6章 人道支援の現場-国際社会の役割」「第7章 遠のく帰還-解決の道はあるのか」。
「あとがき」で、著者は「もうひとつ大それた試み」があったことについて、つぎのように述べている。「人道支援とアカデミズム、ジャーナリズムのささやかな融合である。これまでアジアやアフリカの現場を歩いて常々考えていた自分なりの課題であり、それぞれの視点と手法を〝良いとこ取り〟して、松花堂弁当のように盛り込み、誰にでも受け入れられる形でロヒンギャ問題を広く発信したいと目論んだが、全部が中途半端になってしまったことは本人が一番自覚している」。この「大それた試み」は、1963年生まれの著者の経歴を見ればわかる。「毎日新聞ジャカルタ特派員、東京本社編集デスクを経て、国際協力分野のジャーナリストに転じる。アフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争のほか、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島紛争・難民問題、平和構築の現場を継続取材。2017年12月以降、国際NGO「難民を助ける会」(AAR Japan)バングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に携わる」。
いま「大それた試み」に必要なのは、人道支援とアカデミズム、ジャーナリストのあいだの、それぞれの成果を理解し実行に移すための「翻訳者」である。とすると、著者に必要なもうひとつの肩書きは「学術博士」であろう。キーワードは、「普通の感覚」である。ミャンマー国軍、国民、アカデミズム、ジャーナリズム、人道支援に携わる人びと等々、それぞれの「普通の感覚」が違っているかぎり対話は生まれず、解決の道は閉ざされたままである。それぞれの「普通の感覚」を近づけ、対話のための共通の基盤(利益)を見つける「翻訳者」が必要で、著者はその「翻訳者」になる可能性がある。
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