小松みゆき『動きだした時計-ベトナム残留日本兵とその家族』めこん、2020年5月25日、317頁、2500円+税、ISBN978-4-8396-0321-2

 2017年に平成天皇・皇后がベトナムを訪問したとき、残留旧日本兵の妻子と対面した。インドネシアの残留日本兵や前年の16年に天皇・皇后がフィリピンを訪問したときに対面した日系人については知っていても、ベトナムについては知らない人が多いのではないだろうか。あまり知られていないが、ほかの東南アジア各国・地域にも、百人単位で現地に残留した旧日本兵・住民がいた。

 ベトナムには、1945年8月の日本の敗戦後、「少なくとも六〇〇人以上が帰国せずに、ベトナムに残留したと言われている。日本軍の兵士だけでなく、商社や金融関係など勤務の民間人の中にも残留する人がいた。その多くが、ベトミン(ベトナム独立同盟)からのリクルートを受けた」。かれらは「兵士、軍事教官、軍医などとして働」き、「新しいベトナム人」とよばれ、「ベトナム名を名乗り、周囲に勧められて家庭を持ち、ベトナムに根を下ろして暮らしていたようだ」。「しかし九年後の一九五四年に、ベトナム政府が残留日本兵の帰国を促してその生活は一変する。この時、家族の帯同は許されなかった」。ベトナムに残された子どもたちは、「日本ファシストの子」と「後ろ指をさされ、有形無形の差別を受けたという」。

 1992年に日本語教師としてハノイに赴任した著者の小松みゆきは、教室で「私ノ父ハ、日本人デス」と「つっかえながら言った」中年男性に出会って戸惑った。それがきっかけで、「父が日本人」という人びとに次々に出会い、夫や父を想う気持ちに圧倒されて、「残留日本兵の家族探しにのめりこんでいった」。本書は、「人の縁の濃いこの国[ベトナム]で暮らしてきた一人の日本人である私[著者]が、歴史の狭間に埋もれかけた人々をたずね、一緒に泣き笑いしながら歩んできた記録である」。

 本書は、10のストーリーと4つの「解説」、4つの「資料」からなる。そのなかには、3つの家族のストーリーと、著者の認知症の母との13年間のハノイ暮らし、が含まれている。4つの解説のうち2つは、「一九四五年、彼らはなぜベトナムに残留したのか」「一九五四年、彼らはなぜ日本に帰国したのか」の疑問にたいする「ベトナムの政治・社会史の専門家」によるものである。3つめは残留日本兵のひとりのお墓探しの顛末記、もうひとつはNHKドキュメンタリー担当者によるものである。これらの「解説」でもわからないことの一部は、「資料」の残留旧日本兵の手記や手紙などが答えてくれる。

 本書の発行が可能になったのは、著者の「残留日本兵とその家族のことを書きたい、知ってもらいたいという一心」、さらに「単なる記録ではなく、未来に向けてのひとつの指針となるようなものにしないといけない」という強い思いが第一であるが、それだけではない。著者が残留旧日本兵とその家族に関心をもつようになった時期は、東西冷戦終結(1989年)とソビエト連邦崩壊(1991年)後の歴史の政治化と一致する。日本と中国あるいは日本と韓国との関係が、日本の首相の靖国神社参拝問題などで悪化するなか、日本は東南アジアとの友好関係を築こうとし、中国や韓国が戦争中日本に占領・支配された東南アジアを含むアジアの問題にしようとしたのに対抗した。とくにフィリピンやベトナムにたいしては、南シナ海の領有権問題で中国と対立していたことから、安全保障上の問題でも連携しようとした。2016年の平成天皇・皇后のフィリピン訪問のときに戦後残された日系人(日本人父とフィリピン人母の間に生まれた子どもたち)や17年のベトナム訪問のときに残留旧日本兵の家族(ベトナム人妻およびその子どもたち)と対面したのも、日本人ゆかりの人びとを通して友好関係を築こうとした外交戦略として理解できる。いっぽう、ベトナムは1980年代半ばから新経済政策を採用し、日本からの投資に期待した。ともに、その手段として日系人を通した親善・友好に関心をもつようになった。

 インドネシアの残留日本兵はかれら自身が1979年に「福祉友の会」を設立し、戦後フィリピンに残された日系人は宗教団体や戦前・戦中にともに日本人小学校で学び戦後引き揚げた二世たちが70-80年代に支援に乗り出した。はじめは見向きもされなかったが、歴史問題の深刻化とともに日本の外交戦略のなかに位置づけられるようになった。そして、日本国籍の取得や日本での就労に繋がっていった。それらに比べると、ベトナムの場合ははじまったばかりである。時計は動きだした。もうその動きは止めようがないところまできた。著者の功績は、限りなく大きい。本格的な研究が待たれる。

 なお、フィリピンにかんして、つぎの論文を書いた:早瀬晋三「アキヒト皇太子・天皇のフィリピン訪問-『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』[岩波書店、2018年]補論-」『アジア太平洋討究』第34号(2018年10月)、17-30頁https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=42056&item_no=1&page_id=13&block_id=21(早稲田大学リポジトリ)
;早瀬晋三「引き続く「ベンゲット移民」の虚像-植民地都市バギオ、移民、戦争、そして歴史認識のすれ違い-」『アジア太平洋討究』第37号(2019年11月)、1-48頁 https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=48123&item_no=1&page_id=13&block_id=21(早稲田大学リポジトリ)