倉沢愛子『インドネシア大虐殺-二つのクーデターと史上最大級の惨劇』中公新書、2020年6月25日、222頁、820円+税、ISBN978-4-12-102596-8

 いまから半世紀ほど前、東南アジアの2つの国、インドネシアとカンボジアで大虐殺事件が起こった。1975年に政権を奪ったカンボジアのポル・ポト政権下(79年初まで)で起こった虐殺は、戦闘や飢餓などで死亡した人びとが含まれていたりいなかったりではっきりしないが、百数十万人といわれる。2003年にカンボジアと国連が協力して、カンボジア特別法廷が設置され、国連監視の下で、現在も裁判が進行している。すでに1998年にポル・ポトが死亡し、裁判中に中枢にいた指導者がつぎつぎに死亡するなどしたが、大虐殺の全貌は裁判を通しておおかた明らかになった。いっぽう、インドネシアで1960年代後半に起こった虐殺事件は、いまだ真相は闇で、和解は進んでいない。

 本書は、この大虐殺の背景にある1965年9月30日と68年3月11日に起こった2つのクーデタを中心に「史上最大級の惨劇」を追う。「この一連の事件が原因となって、独立の英雄スカルノは失脚し、反共の軍人スハルトが全権を掌握する。権力闘争の裏で、二〇〇万人とも言われる市民が巻き添えとなり、残酷な手口で殺戮された」。「いまだ多くの謎が残る虐殺の真相に、長年に及ぶ現地調査と最新資料から迫る」。

 著者、倉沢愛子が2014年に『9・30 世界を震撼させた日』(岩波書店)を出版したにもかかわらず、本書とほぼ同時に『楽園の島と忘れられたジェノサイド-バリに眠る狂気の記憶をめぐって』(千倉書房、2020年)を出版したのは、「猟奇的ともいえる、必要以上に残忍な殺し方をあえて選び、被害者の苦しみもがく姿を楽しんでいた」といわれるような殺人劇が、「地方によって異なるものの、連日連夜おこなわれ、多くは終息までに数ヵ月」におよび、「そのあいだには至るところに死体が転がり、多くの人が自ら手を下して集中的に殺害がおこなわれた」現実を知りたかったからである。

 著者は、「まえがき」をつぎのパラグラフで終えている。「本書が描こうとするのは「人」である。多くの資料や証言にもとづいて、できるだけ正確に歴史を掘り起こすという基本姿勢は曲げないが、私が追うのは単なる歴史事実の記述ではない。私が追うのは、その歴史を形作った「人」の歩いた奇跡であり、そこに秘められたやりきれないほどの哀しみや深い怒りなのである。事件の被害者の生の声に触れることで、この悲劇を少しでもリアルなものとして感じてもらえればと願う」。

 そのためにも、背景として事件の真相を知る必要がある。だが、国内外で新たな資料が出てきても限られており、1998年にスハルト政権が崩壊した後も、2008年にスハルトが亡くなった後も、真相にたどり着けるようなものは出てきていない。そこで、国際情勢や近隣諸国、日本との関係が注目された。著者は、それぞれ、「まえがき」でつぎのように説明している。

 まず、国際関係については、「なぜ各国は沈黙を守ったのか」を問う。「それは、共産主義の浸透に危機感を抱く西側諸国にとって、当時四大政党の一つとして大きな勢力を有したPKIの一掃は非常に望ましいことだったからである。本来ならPKIをバックアップするべき立場にあった社会主義国の盟主ソ連や東欧諸国も、イデオロギーの異なるPKIの受難に対して冷ややかな対応をした。唯一、中国政府だけがこの党を守ろうとしたが、まもなく自国で始まった文化大革命の混乱ゆえに、発揮できる影響力は限られ、最後はPKIの準備不足の行動だったとして切り捨てた。こうして、孤立無援になったPKIの支持者たちは、歯止めのかからない残虐行為の中で息絶えていった」。

 つぎの近隣の東南アジア諸国に与えたことについて、つぎのように述べている。「一連の事件は、インドネシアの国内政治においても、アジアの国際関係においても、非常に大きな変化をもたらした。スカルノからスハルトへの政権交代とPKIの消滅によって、インドネシアはそれまでの容共国家から、親欧米的な反共国家へと変身した。東南アジアの勢力バランスは自由主義陣営に有利なものとなり、その結果、反共五ヵ国からなる東南アジア諸国連合(ASEAN)が成立した」。

 そして、日本との関係である。「経済的には、外国資本の導入を拒む旧体制から、開発優先の政策へと舵を切ることにつながっていく。海外に門戸を開放し、外資を獲得することで経済発展を目論んだスハルト時代のインドネシアに対して、日本の経済界は大規模な資本進出に乗り出し、政府は多額の経済援助を供与した。この太いパイプが、一九七〇年代以降の日本の経済成長を牽引したことは間違いない」。「未曾有の惨劇の果てに、日本もこのような巨大な利益を享受したといえるが、今そうした自覚をもっている日本人はほとんどいないだろう。歴史に葬られようとしているこの事件について、私はあらためて書き留めてみようと思った理由はそこにある。私たちはこの大虐殺を簡単に忘れるべきではない」。

 本書は、まえがき、序章、時系列な全4章、終章、あとがき、年表、参考文献、からなる。終章「スハルト体制の崩壊と和解への道」はわずか4頁で、最後の見出しが「進まぬ和解」とあるように、事件の真相を明らかにするにはほど遠く、「こうして、国際社会はもちろん、国内的にも事件はどんどん風化しつつあるのである」と終えていることからも、研究の行き詰まりが感じられる。年表も、1998年のスハルト政権崩壊後、たった2項目しかない。

 それでも著者の執筆意欲をかき立てたわけは、「あとがき」でつぎのように述べられ、改めて日本との関係が強調されている。「この血なまぐさい大惨事を経て、日本はインドネシアと非常に緊密な経済関係を構築した。多くの日本企業が資本を投下して進出し、インドネシアは長期にわたって日本の政府開発援助(ODA)の最大の援助国となった。その結果、一九七〇年代、八〇年代と日本の経済は潤い、私たちはその豊かさを享受した。にもかかわらず、そのような歴史への理解はほとんど欠如している。なんとかこの歴史を正確に記述し、日本の若い世代に伝えたいという個人的な思い入れが、私をパソコンの画面にくぎづけにさせ、本書の完成につながった」。

 日本のインドネシアへの経済進出は、インドネシアの経済発展にもつながったが、その過程で、日本人の「傲慢さ」をみたインドネシア人もいる。インドネシアの日本とともに歩んだ経済発展の背後にある「史上最大級の惨劇」に目を向けることによって、インドネシア人と日本人がともに歩む、これからの道がみえてくることだろう。そのためには、著者のように「人」に目を向けることが大切だ。