林葉子『性を管理する帝国-公娼制度下の「衛生」問題と廃娼運動』大阪大学出版会、2017年1月17日、536+12頁、7000円+税、ISBN978-4-87259-560-4

 本書の帯の表には「近代公娼制度を支持した者たちの責任を問う」という怒りがあり、裏には「なぜ、このような女性の虐待を公認する制度を、日本人は自ら廃することができなかったのか?」という悔しさ、情けなさが感じられる。そして、「序章より」のつぎの説明がある。「近代公娼制度は、巨大な暴力装置であった。その制度のもとで、どれほど多くの女性の生命と尊厳が損なわれてきたか、計り知れない。貧しい家の娘たちが親に売られ、男性の性欲解消のための犠牲にされた。帝国日本の拡大にともない、日本「内地」で近代化した公娼制度は占領地へも持ち込まれ、被害を甚大なものにした」。「日本では、1946年1月にGHQが公娼を容認する一切の法規の撤廃についての覚書を出すまで、公娼制度が存続していた。つまり日本人は、戦争に負けて、占領軍に命じられるまで、それを廃止できなかったのである」。

 本書では、日本が公娼制度を廃止することができなかった「その最大の原因が「衛生」論であったことを明らかにする。「衛生」論を突き詰めた先にあるのが「軍隊衛生」論である」。「本研究は、日本における近代公娼制度に対する人々の認識の変遷について、一八六〇年代から一九三〇年代までの時期を中心に検証するものである。この時代に特に焦点を当てるのは、まさにこの時期に、西洋の帝国が植民地支配の技術として日本に持ち込んだ性病管理の方法が、日本社会に定着し、さらにアジアへと伝播されていくからである」。

 著者は、検証を通じて探したいことを、つぎのように述べている。「わずかな可能性であっても、人が差別を乗り越え、助け合えるならば、その力はどのようにして生じ、どのような条件があれば可能になるのか?-私はその答えを、実際にそれを模索して生きた人々の軌跡をたどることによって、探したいのである」。

 そして、著者は、先行研究の動向を踏まえて、「公娼制度下の暴力は、なぜ廃絶できなかったのか?」という問いにたいして、つぎの3つの課題を掲げた。「①日本の近代公娼制度を「帝国」の問題として捉え、日本のアジアへの侵略と近代公娼制度の拡大が、不可分の関係にあったことを示す」「②近代公娼制度を、当時のエリート層だけでなく、庶民にも関わる「衛生」問題として捉え直す」「③近代公娼制度を支えた「軍隊衛生」論は<男らしさ>の理想化と同義であり、それが存娼派のみならず廃娼派の人々にも支持されていたために、廃娼運動が近代公娼制度の問題の核心に迫れなかったことを示す」。

 本書は、「序章 公娼制度下の暴力は、なぜ廃絶できなかったのか?」、全9章、「終章 帝国の軍隊に取り込まれた公娼制度と廃娼運動」からなる。終章では、3つの節「アジアへの侵略戦争と公娼制度の近代化」「近代公娼制度を支持したのは誰か?」「帝国主義の女性差別」にわけて、本書を総括している。

 まず、第1節は、つぎのように締め括っている。「日本が最初に経験した大規模な対外戦争である日清戦争において、軍隊が戦地で娼婦を利用し、軍医が現地の女性たちの性病検査を行うという軍隊による性の管理の原型が見られ、日露戦争において、その規模が拡大したのである」。

 第2節は、「日本軍の責任もきわめて大きいが、その責任の所在については、慎重な検証が必要である」として、つぎのように結んでいる。「人々の差別意識を煽る新聞記者と、そのような新聞を支持して購読する読者との間に、共犯関係ができあがっていたのである。性病予防のために娼妓を社会の犠牲に供することを前提とする近代公娼制度は、娼婦への差別意識があってこそ成り立つ制度であったから、そのような差別意識を醸成したメディアもまた、近代公娼制度を下支えした責任が問われるべきであるといえよう」。

 そして、第3節の最後、つまり終章の最後は、つぎのパラグラフで結ばれている。「帝国批判なき廃娼論が主流を占める中、近代公娼制度の非人道性に気づいていたはずの廃娼派の人々の多くは、真に効力ある近代公娼制度批判を展開し得なかった。しかし、日露戦争中にシングルマザーになった伊藤(城)のぶが、右の非戦論を投稿し、それを掲載したのも、廃娼運動を担った『婦人新報』であった。公娼制度の廃止に失敗した廃娼運動の歴史の中にも、そのようにして僅かに、人の希望が見えるのである。「義のため戦ふとせば如何なるものが義であらふ?」という彼女の問いは、今も、その意義を失っていない」。

 日本人自らが公娼制度を廃することができなかったが、「公娼を容認する一切の法規の撤廃についての覚書」を出したGHQの下で、日本人娼婦はアメリカ軍基地周辺を中心に巷に溢れた。帝国の問題なのか、近代軍制度の問題なのか、はたまた男性の性(さが)の問題なのか、それぞれの国・地域、民族、社会の個々人にたいする「民度」が問われている。「民度」ということばは曖昧で、こんな場合に使いやすいが、もっとふさわしいことばはないだろうか。本書で扱われた「衛生」が、もっとも女性を傷つけたことを考えると、「個人の尊厳」のほうがふさわしいかもしれない。