赤嶺淳『鯨を生きる-鯨人の個人史・鯨食の同時代史』吉川弘文館、2017年3月1日、283頁、1900円+税、ISBN978-4-642-05845-2
食文化という身近なところから、時代や社会を考え、自分たちの生活を見直すというのが、昨今人びとが受け入れやすい切り口になっている。裏表紙では、本書をつぎのようにまとめている。「鯨とともに生きてきた〝鯨人(くじらびと)〟六人が個人史を語る。江戸時代の鯨食文化から戦後の「国民総鯨食時代」、鯨肉が「稀少資源化」した今日まで、日本社会における捕鯨・鯨食の多様性を生活様式の移りかわりに位置づける」。
本書の目的は、「個人史と同時代史-プロローグ」の冒頭で、つぎのように述べている。「広義の捕鯨産業に従事してきた、あるいは現在も従事している人びと-鯨人(くじらびと)-の個人史の聞き書きと、そうした人たちが生きてきた時代を「クジラ」を通じて叙述することを目的としている」。
本書には、目次にも本文にも章節が書かれていない。だが、「プロローグ」には章も節も書かれている。それに従うと本書は3章からなっている。最初の章「鯨を捕る」とつぎの章「鯨を商う」は、それぞれ3つの節に分かれ、それぞれ個人史が語られている。3つめの章「鯨で解く」は「個人史に解説を附」したものである。
最初の2章の6つの個人史は、具体的につぎのようにまとめられている。「一九五四年に南氷洋へ出漁した池田勉さん(一九三三年生まれ)を筆頭に、奥海良悦さん(一九四一年生まれ)は一九六〇年、和泉節夫さん(一九四六年生まれ)は一九六四年に南氷洋へ出漁している。岡崎敏明さん(一九四一年生まれ)は、一九六一年から北九州市の旦過市場(たんがいちば)で鯨肉を売ってきた。おなじく一九四一年生まれの常岡梅男さんは、一九五九年から林兼産業で鯨肉入り魚肉ハム・ソーセージを製造してきた。一九四三年生まれの大西睦子さんが、大阪で鯨肉料理専門店を開いたのは一九六七年のことである」。
著者が、個人史に着目するのは、「個人史のなかには社会の変化が凝縮されているはずである」からで、つぎのように説明している。「本書の主要舞台のひとつとなる一九五〇年代後半から六〇年代前半は、いわば日本の南氷洋捕鯨(南鯨)の黄金期でもある。同時に日本列島が高度成長で沸いた時代でもある。大量生産・大量消費をキーワードとする高度成長を契機として、わたしたちの生活は、どのように変化したのであろうか? また、調査捕鯨がはじまった八〇年代後半、日本はバブル経済にうかれていた。そうした日本社会の激変ぶりを、鯨人はどのように見つめていたのであろうか? それが、本書の執筆動機であり、大胆にもタイトルの一部に「鯨食の同時代史」と名づけた理由でもある」。
6つの個人史の後を受けて、「「消費」(鯨を食べる)という視点から、戦前から戦後にかけての日本の捕鯨について叙述し、日本社会の変容過程を跡づけ」、「エピローグ」冒頭で、本書で明らかになったこと、指摘したことを、つぎのように整理している。「本書では、日本の南氷洋捕鯨(南鯨)に関し、①戦前は鯨油生産を中心とするものであり、②戦後は肉と油の生産が並行したとはいえ、③一九六〇年代なかばまでは鯨油生産もさかんであり、④捕獲可能な鯨種に制限が加わる過程で、もっぱら鯨肉生産に軸足がおかれるようになったことを明らかにした。そして鯨の消費形態については、⑤全国的に鯨肉が「見える」形で消費されたのは戦後の食糧難の時代のことにすぎないものの、⑥マーガリンと魚肉ハム・ソーセージという商品を通じて、わたしたちは大量の「見えない」クジラを無意識に消費していたことを指摘した」。
そして、この「エピローグ」は「クジラもオランウータンも?」と題して、「鯨の保護」がオランウータンの生息域を脅かしている実態を紹介している。鯨油の代替品となったのは、大豆油とパーム油で、パーム油はアブラヤシからとれる。アブラヤシの生産は、オランウータンの生息地であるボルネオ島やスマトラ島で急拡大し、オランウータンの生息環境を悪化させている。
ひとつを保護すれば、別の環境を脅かす。著者は、つぎのように総括している。「鯨類の乱獲は、たしかに問題である。それはアマゾンやボルネオの森を破壊し、生物多様性を脅かすのと同様、糾弾されてしかるべきである。南氷洋というグローバル・コモンズの利用も同様だ。逆説的であるが、だからこそ、わたしたちは歴史と対峙し、その過ちを繰りかえさないように科学調査を積みあげ、持続可能なレベルで厳格に管理された鯨類の利用を推進すべきなのではないだろうか? それは、決して「蛮行」なのではなく、「かぎりある地球でわたしたちが生きる」術のひとつなのである」。
身近なものから入ると理解しやすい。だが逆に、食材としての鯨が身近ではなくなり、なんで必要なのかがわからない者がいる。とくに著者より若い世代は、鯨を食べたことがなく、食べようとも思わない人も多い。どう説明したらいいだろうか。鯨はもはや「史」の領域で、鯨にかわる身近な食材から語る必要が生じている。
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