青野正明『帝国神道の形成-植民地朝鮮と国家神道の論理』岩波書店、2015年、379+15頁、6000円+税、ISBN978-4-00-024047-5
本書の概要は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「「神社非宗教論」にもとづく国家神道は、いつ・いかにして皇祖神崇拝と結びついたのか。「敬神崇祖」の論理はいかにして形成され具体化されたのか。一九三〇年代を中心とする植民地朝鮮における神社政策の展開を、神社神道の言説や地域の祭祀の場に即して分析、多民族帝国主義的ナショナリズムに立脚した国家神道の姿を解明、その本質に迫る」。
序章「帝国史における国家神道」では、まず「1 課題の設定」では、つぎのように説明している。「朝鮮総督府の神社政策の分析を通じて、植民地朝鮮における神社神道の変容を帝国史的な視野で捉える。帝国史的な視野に立つとは、神社神道と国民教化との関係を見るうえで、帝国日本という視野の中で、国民国家として単一民族のみならず多民族的な帝国主義的ナショナリズムの形成をも見据える立場である」。
「この立場から、本書では植民地朝鮮において、変容する神社神道が天皇崇敬システムと結びつく地点から国家神道の論理を抽出し、その論理の実体化が試みられたことを論じていく。それは、「内地」ではベールに覆われて見えにくかった国家神道のより本質的な姿、つまり多民族帝国主義的ナショナリズムに立脚した国家神道の姿を露わにする作業でもある。このような姿の国家神道を本書では「帝国神道」と呼ぶ」。
「2 研究の方法」では、この冒頭の課題を、つぎのようにもう少し具体的に言い換えている。「朝鮮神宮の鎮座・祭神論争から心田開発運動にかけての神社神道の展開過程における変容を捉え、それを通じて国家神道の論理を提示する。そして、その論理を朝鮮の地で実体化に移すべく総督府当局が模索する姿を描きながら、民族宗教の枠を超えた国家神道論を試みるという課題となる」。
この課題を解くために、本書は序章、2部、全5章、付論、終章からなる。「第Ⅰ部 国家神道論理の形成-一九三〇年代前半」は全3章からなり、「朝鮮神宮の鎮座・祭神論争から心田開発運動にかけての神社神道の展開過程における変容を捉え、それを通じて国家神道の論理を提示する」。「第Ⅱ部 国家神道論理の実体化-一九三〇年代後半」は、本論2章と付論からなり、「国家神道の論理を朝鮮の地で実体化すべく総督府当局が模索する姿を描く」。
終章「民族宗教の枠を超える帝国神道論」では、まず取り組んだ課題を再確認し、つぎに本論で得た成果をもとに、つぎのように本書を締めくくりたいと述べている。「まず、「1 国家神道の論理と帝国神道」では、(1)天照大神の性格変化、(2)国家神道の論理、(3)「帝国の神祇」と帝国神道、という構成で考察する。次に「2 朝鮮社会の反応」では、(1)朝鮮人の反応と、(2)日本人移住者の反応、に分けて考察を加えてみよう。そして、最後に「3 課題」では本論で積み残した課題として、(1)「家祭祀」の場面、および(2)「敬神崇祖」観の変遷、について」考察し、問題提起している。
そして、「あとがき」では、今日の問題と絡めて、つぎのように記している。「終章で、神社神道は土着性とナショナリズムに関わる重い課題から逃れることはできないと指摘したが、(1の(3)「帝国の神祇」と帝国神道)、日々の生活の中でも私はこの問題を改めて感じることが多い。日本人の民族宗教であろうとするならば、変容する地域社会での神社の存在意義は、どのように説明されるのであろうか。帝国神道期を経た経験のある神社神道は、その国際化に向けてナショナリズム問題をどのように解決するのであろうか」。
現代の国際化を考える前に、戦前・戦中の海外に建立された神社や戦後新たに海外に建立された神社について考える必要があろう。台湾では台北市の中心にある公園にいまでも鳥居が立っている。ハワイなど日系人の多いところには出雲大社の分院などがある。これらのことと本書はどう結びつくのだろうか。民族を超えて帝国の論理で語ろうとするとき、当然まず民族が問われる。破壊されなかった台湾の鳥居や、ハワイの神社の行事に集まる日系人以外の人びと、これらのことから1930年代の植民地朝鮮の神社がみえてくるかもしれない。
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