永野善子『日本/フィリピン歴史対話の試み-グローバル化時代のなかで』御茶の水書房、2016年3月31日、x+195頁、2600円+税、ISBN978-4-275-02028-4
フィリピン社会経済史を専門にしている著者、永野善子が本書を書くきっかけとなったのは、『歴史と英雄-フィリピン革命百年とポストコロニアル』(神奈川大学評論ブックレット11)(御茶の水書房、2000年)を執筆したことだった。フィリピン人にとって最大の歴史的関心事であるフィリピン革命(1896-1902年)をめぐって、フィリピン人研究者と宗主国であったアメリカのフィリピン史研究者とのあいだで大きな違いがあった。そのことは、アメリカの影響力が強かった近代日本にも、おおいに関係することだった。
著者は、「序章 記憶からポストコロニアルへ-「知の植民地」状況を超えるために」」の「はじめに」で、つぎのように述べている。「私の目からすると、アメリカのアジア研究は、今日においても、その理論と構想力においてきわめて強靱な影響力を行使し続けている。私たちは、いまここでその意味と問題点を、アジア地域の研究者たちとの対話を繰り返しながら、ふりかえる必要があるのではなかろうか。それと同時に、日本や日本人の姿を等身大で眺める余裕がでてきた、近隣アジア諸国の人々の声にこれまで以上に耳を傾けることが求められている。こうした観点から、ここでは、日本における「記憶」と「ポストコロニアル」をめぐる議論を取り上げながら、日本における「知の植民地」状況を超える可能性を模索することにしたい」。
そして、序章「むすび」で、「日本でポスト・モダンが叫ばれて久しいが、日本の近代ははたして終わったのだろうか」と問いかけ、「二一世紀初頭において私たちに突きつけられている課題」について、つぎのように述べている。「近代国家形成以来、日本人が抱えてきた内なるポストコロニアル状況とは何かをその原点に立ち戻りながらみつめつつ、アジアにおけるひとつの国民が一世紀以上にわたって経験してきた「不可逆的な精神変容」としてそれを受け入れることではなかろうか。そしてその重みを背負いながら新たな歩みを続けることによって、私たちは自分自身の「知の植民地」状況を乗り越える道を切り拓くことができるのかもしれない。さらに加えると、いま私たちは、グローバリゼーションの時代のなかで、国民国家とナショナリズムの布置関係の転位についてより先鋭な問題意識をもつことが、求められているように思われる」。
本書は、序章、全5章、終章、座談会、あとがき、などからなる。座談会「9・11から未来社会へ-「失われた一〇年」と日本社会」(岩崎稔・吉見俊哉・永野善子)は、第3章と第4章のあいだにある。「序章」の終わりで、章ごとにつぎのように要約している。「第1章[「フィリピン研究とポストコロニアル批評」]と第2章[「グローバル化時代の歴史論争-フィリピン革命史をめぐって」]において、東南アジアに位置しスペインとアメリカによる数世紀にわたる植民地支配を経験したあと、アジア・太平洋戦争時代には日本による軍事的占領下に置かれたフィリピンの近年における歴史をめぐる新しい接近方法や論争を紹介し、フィリピン歴史研究におけるポストコロニアル的介入の意味について議論してゆきたい。第3章[「フィリピン歴史研究の翻訳に携わって」]は、私自身が関わったフィリピン歴史研究に関する翻訳作業の体験から、フィリピン人歴史家たちが英語をとおして同国人であるフィリピン人や欧米圏の研究者向けに執筆した著書を、日本人向けに日本語に翻訳するためには、どのような文化的かつ言語的操作が必要であるのかを事例的に示してゆく」。
「ついで「9・11から未来社会」をテーマにして、二〇〇一年に岩崎稔氏と吉見俊哉氏をお招きして行った座談会を圧縮したかたちで再録する。十数年前の座談会であるが、グローバリゼーションのもとで日本社会が抱えている問題や日本におけるアジア研究の課題についてのここでの議論は、今日においても共通するものである。また、この座談会の内容は、本書の第4章や第5章への流れをつくる意味をもっている」。
「さらに、第4章[「国民表象としての象徴天皇制とホセ・リサール」]と第5章[「格差社会のなかの海外出稼ぎ者と国際結婚-在日フィリピン人を事例として]では、日本と隣国フィリピンの関係について、歴史と現在の双方からアプローチする。これまでともすれば、日本はかつての「帝国」であり、フィリピンは「植民地」であったという側面から、両国の関係についてさまざまな議論がなされてきた。これに対して、この二つの章では、日本とフィリピンを同一の土俵において比較することを試みたい。第4章では、アメリカをひとつの光源として、国民表象としての、フィリピンにおけるホセ・リサールと日本の象徴天皇制を比較し、日本とフィリピンの二つの社会にアメリカ性が内在する意味を析出する。他方、第5章は、現代の日本社会におけるアメリカ性を探る意味で、かつてエンタテイナーとして来日したフィリピン人女性と日本人男性の国際結婚を事例として、フィリピン人が日本のなかに「第二のアメリカ」を意識し、他方、日本人はフィリピンのなかに日本より先行した「アメリカ文化」の受容状況を見出している点に着目する」。
「そして終章[「日本・アジア史の新たな接点を求めて-グローバル化とテロの時代のなかで」]では、ポストコロニアルの視点から一歩進んで、植民地近代性の概念を検討し、植民地近代性からの新しい歴史研究のアプローチの可能性について検討を加える。こうした文脈のなかで、本書では、帝国アメリカのもとに日本とフィリピンを対峙させることによって、日本における「知の植民地」状況を超えるための方向性を見出す糸口を探ることをめざすものである」。
「終章」の「むすび」では、つぎのように述べて総括している。「重要なことは、私たち日本人が「アジア」を論じる場合、日本で語られる「アジア」と近隣アジア諸国で語られるアジアとが異なる意味をもっていることに、これまで以上に配慮する必要があるように思われる。いうまでもなく、それぞれの国や地域の人々がもつ「アジア観」とは、それぞれの国や地域の人々がこれまで背負ってきた歴史的背景によって異なる。したがって、先見的に「アジアはひとつ」という観点からアジアを論じることは、むしろ危険である」。「「アジア」とは、場所ではなく、歴史と文化政治学の重荷を背負っており、それゆえに、私たちは「複数化されたアジア」を構想し、お互いの差異を尊重し、かつそれを知ることが、今求められているといえよう」。
日本、フィリピン、アメリカ3ヵ国は、近現代において2国間関係だけではわからない3ヵ国関係のなかのそれぞれの2国間関係がある。帝国アメリカを上段に置くことによって、日本とフィリピンはともに「知の植民地」として位置づけることができ、象徴天皇と国民的英雄ホセ・リサールをも、帝国アメリカの前では比較の対象なりえた。ともに「知の植民地」状況を超えるために。
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