趙景達編『儒教的政治思想・文化と東アジアの近代』有志舎、2018年3月30日、324頁、5600円+税、ISBN978-4-908672-21-7

 本書の概要は、裏表紙につぎのようにまとめられている。「東アジアの国民国家形成は、西欧近代国家のモジュールを単にコピー・アンド・ペーストしてなされたわけではない。そこには儒教的伝統が強く刻印されている。近世後期から近代、そして現代にかけて、儒教的政治思想や政治文化はいかに展開し、また近代的価値を受容するに当たっていかにその受け皿となったのか。また一方で、「儒教」といっても各国での在り方は同じではなく、それがそれぞれの近代に与えた影響とはどのようなものだったのか。一国史の枠をこえて新しい東アジア比較史の地平を拓く挑戦」。

 本書の課題は、「序論 東アジアの儒教化と近代」の最後で、編者がつぎのように述べている。「儒教の政治思想や政治文化は、近代移行期を含め近代に入って、いかに存在していたものがいかに変容していくのか。そして、とりわけ民衆世界の現実はどのようなものであり、どのように近代と向き合ったのか。本書の課題はまさにこのことを東アジア史的に解き明かすことにある」。

 このキーワードの「政治思想」と「政治文化」について、「序論」でつぎのように説明している。「政治文化というのは大きな概念であり、本来なら政治思想もまたここに含まれてしかるべきである。しかし編者は、これまでいくつかの機会で述べてきたように、政治文化を三層からなるものとして考えている。すなわち、第一層-原理(体制の政治理念・政治思想など)、第二層-現実・現象(収税慣習・官民関係・選挙慣行・運動作法・願望・迷信など)、第三層-表象(旗幟・標識・言葉・服制・儀礼・祝祭など)である。第一層の原理はあくまでも理想であって、それが第二層の現実や現象をそのまま規定するわけではない。民主主義を標榜しながら民主主義的でない国はいくらでもある」。「第一層によって規定される第三層は、第一層が変質したときには新たな表象が立ち現れ、それがいつしか伝統として観念される。政治文化とはこうした原理・現象・表象の一切をいう」。

 本書は、序論、2部、各部6章の全12章からなる。2部になったのは、「残念ながら第三層については論究することができず、第一層と第二層に限定されたので、政治思想と政治文化に分け二部構成としてある」。

 第一部「儒教的政治思想の近代的転回」は、つぎの6章からなる:「一 一九世紀朝鮮における対西洋認識と洋擾期の朴珪寿-対アメリカ交渉を中心に-」(久留島哲)、「二 近代朝鮮における民国思想」(趙景達)、「三 清末士大夫における二つの民認識について」(小野泰教)、「四 江戸時代の政治思想・文化の特質-「武威」「仁政」のせめぎ合いと「富国強兵」論-」(須田努)、「五 一九世紀の藩学と儒学教育-越後長岡藩儒・秋山景山『教育談』の世界-」(小川和也)、「六 吉野作造における「歴史の発見」と儒教的政治文化の再認識」(中嶋久人)。

 第二部「儒教的世界文化の近代的転回」は、つぎの6章からなる:「一 近代朝鮮における道路整備の展開過程と民本-ソウルの事例をもとに-」(伊藤俊介)、「二 犯罪と刑罰に見る一九世紀末の朝鮮」(愼蒼宇)、「三 済州島四・三事件と政治文化」(藤本匡人)、「四 救荒の理念と現場-清末北京における「宗室騒擾」をめぐって-」(村田遼平)、「五 「仁政」と近代日本-地方都市秋田の感恩講事業を事例として-」(大川啓)、「六 天地会とベトナム南部社会-民衆運動に見るベトナム近代の政治文化-」(武内房司)。

 結論めいたことは、「序論」「おわりに」冒頭で、つぎのように記されてる。「以上のように、東アジア四国の儒教のあり方は一様ではない。忠孝観念はもとより、儒教の宗教性、民衆教化の程度に至るまで違いがある。正直なところ、ベトナムについては編者の能力不足で分からないことが多い。中国や日本についてもそうなのだが、序論を書くべき責があるため、言及するのやむなきに至った。専門研究者のご批正を待ちたいが、いずれにせよ儒教と近代という問題を考える場合、平等主義と平均主義の実現というのは、重要な視点ではないかと思う。本来儒教なかんずく朱子学というのは、一君万民と民本主義を標榜するがゆえに、本来的に自由主義の契機も孕みながら、平等主義と平均主義の方向に進んでいくのではないか。長期の時間がかかったとはいえ、誰もが士になりうるという思想的地平が切り開かれ、大同思想も生き続けて無政府主義や社会主義を受容する受け皿になった。朱子学では本来、身分や貧富の格差などあってはならないのであるが、ある意味では礼秩序を重んじる儒教本体の中に自己を否定する契機があったともいえる」。

 われわれの日々の生活のなかに「儒教」が存在していることに、通常は意識しない。だが、われわれの日常のなかに、「儒教」とは無縁の世界から多くの人びとが入ってくるようになった。「儒教」的社会を知る者には、暗黙の前提がある。だが、東アジアの「儒教」のあり方は一様でないことが、本書で明らかになった。通常意識しない「儒教」を問い直す意味を、グローバル化社会のなかに見出すことができる。