蘭信三・小倉康嗣・今野日出晴編『なぜ戦争体験を継承するのか-ポスト体験時代の歴史実践』みずき書林、2021年2月20日、503頁、6800円+税、ISBN978-4-909710-14-7

 なかなか考えさせられる本である。わたしは、「ポスト戦後」という、英語で書くとpost-post warということばを使って、戦争責任も戦後責任も無縁と考えている日本の世代に、東南アジアの同世代と共有できる歴史観を問いかけてきたが、もはやポスト戦後世代は学生のような若者だけを想定できなくなった。戦争を体験していないすべての人びとを対象にしなければならなくなった。つまり社会全体にたいして、戦争体験をいかに継承するかを考える時代になった。

 本書の目的は、筆頭編者の蘭信三が序章「課題としての<ポスト戦争体験の時代>」で、「多様化する<戦争体験の継承>に関する新たな取り組みの動向と現状をまとめ、その在り様と可能性を考えること」であると述べている。

 つづけて、課題について、つぎのように説明している。「本書の課題はそのタイトル『なぜ戦争体験を継承するのか-ポスト体験時代の歴史実践』に端的に示されているが、それはただ単に「戦争体験の風化」に抗する継承実践を掬い上げるという従来型の問題設定ではない。本書は、先に述べたように戦争体験の<忘却と想起>というより包括的なフレームにもとづき、それぞれの対象に関する考察と紹介を行うものである。すなわち、(1)<ポスト戦争体験の時代>になぜ戦争体験を継承するのか。(2)それはどのようにすれば可能なのか。また(3)冷戦崩壊後の今日のグローバル社会においてそのことはどのような意味を持つのか。さらには、(4)冷戦崩壊後、戦後半世紀も経った一九九〇年代以降に様々な戦争体験が新たに想起されクローズアップされたり、また多くの平和博物館が新たに開設されたりしてきたが、それらの現象にはどのような社会的意味が付与されているのか、を明らかとしていきたい」。

 本書は、序章、2部、終章などからなる。第1部は全5章と補論からなる。第2部は総論、全15項目、補論からなる。2部構成の特徴は、つぎのように説明されている。「戦争体験に関する新動向の研究を主とした第一部と、国内の代表的な一五の平和博物館・資料館の歴史実践を開館順に紹介する第二部という二部構成をとっている」。「研究篇のみや平和博物館篇のみで構成される本はこれまでも少なくなかったが、両者を同時に所収し二部構成とするものは少ない。そのねらいは、研究篇と平和博物館篇の二部構成にすることで、一冊のなかで同時に戦争体験の継承を研究し実践するふたつの部門を読み比べ、その相違点と共通点を明らかにし、さらには両者を相互参照することで、現代における戦争体験の継承実践の在り方を双方から探ることにある」。

 「第一部「体験の非共有はいかに乗り越えられるか」は、それぞれの対象から戦争体験の風化や継承、その忘却や想起について考察する論集である。第一章の小倉康嗣「継承とはなにか-広島市基町高校「原爆の絵」の取り組みから」は、基町高校の生徒たちが原爆の絵を描く過程で、体験者たちの語りから彼らの「生」を受けとめ、ある種の「トラウマの感染」に悩まされつつも、相互コミュニケーションに基づく「原爆の絵」の作成過程で、体験の協働的な生成を経ていることを詳細に描き出す」。

 「第二章の田中雅一「開いた傷口に向き合う-アウシュビィッツと犠牲者ナショナリズム」は<犠牲者ナショナリズム>という意表を突いた切り口を呈示する。ホロコーストは、ヒロシマ・ナガサキとともに人類にとって唯一無二の戦争体験であり、人類が犯した戦争犯罪というもっとも普遍的なテーマとして世界中の人たちに継承されてきた。しかし、イスラエルはナショナル・アイデンティティの確立のために、高校生たちのポーランド訪問を高校教育の一部に組みこむその活動のなかで<犠牲者ナショナリズム>というイスラエルに固有な個別性が獲得されていくというアイロニーを田中は描き出し、戦争体験継承の一筋縄ではいかない難しさを掬い上げる」。

 「第三章の遠藤美幸「戦友会の質的変容と世代交代-戦場体験の継承をめぐる葛藤と可能性」」は、「遠藤自身が長らく携わってきた「勇会有志会」という戦友会を事例に、戦友の高齢化に伴う戦後世代の戦友会への参加が、戦友会活動の活性化と同時に戦争体験(遺志)の「誤った」継承の可能性を孕み、戦友会の解散へと向かう過程をダイナミックに描きだす」。

 「第四章の井上義和「非体験者による創作特攻文学」は、特攻という独特の「妖しい力」を持つ体験を創作文学として表現することによって、その力を飼いならすという独特の継承の方法と位置づける。特攻体験に関する遺志の継承という井上の新視点は先に紹介したが、その延長線上で創作特攻文学の作品群を読み解き、特攻体験をめぐる継承の多様性を改めて浮き彫りにする」。

 「第五章の森茂起「戦争体験の聞き取りにおけるトラウマ記憶の扱い」は、「戦争の子ども」たちのトラウマ的体験の聞き取りの含意に関して幾重もの考察を行う。森はドイツにおけるトラウマ研究との連携のなかで「戦争の子ども」研究を推進していくが、その方法のひとつであるトラウマ体験のナラティヴ化、言語化を目指す「自伝的記述」という方法の詳細と、インタビュー法において空襲体験のトラウマ化された過程とその語りを分析的に描き出す」。

 「第一部補論の人見佐知子「戦争を<体験>するということ」は、神戸空襲を記録する会のメンバーへの聞き取りのなかで、会のメンバーや人見が戦争を<体験>することの過程を丁寧に描いたオーラルヒストリー作品である。人見は、戦前生まれだが神戸空襲を経験していないある女性の戦争<体験>と、人見自身が神戸空襲の<体験>を獲得していく過程を、痛ましいエピソードとしてではなく、自身の戦争観や平和への想いを問い直していく作業であることを示す。そして、その女性の<体験>から人見の<体験>へと積み重ねていくことの重要性を描き切る」。

 「第二部「平和博物館の挑戦-展示・継承・ワークショップのグローバル化」は、福島在行の総論と国内一五の代表的な平和博物館(資料館)の紹介と考察から成る。福島「平和博物館は何を目指してきたか-<私たち>の現在地を探る一作業」が、日本における平和博物館の動向を的確に紹介し、各館の開設された文脈や特性について詳細に述べている」。

 序章最後に、「残された課題」として、<平和博物館の挑戦><あの戦争の「特権化」><第二世代の経験と想い><当事者になる>の見出しを掲げて論じ、最後に<植民地責任と向かい合う>の見出しの下、つぎのようにまとめて、本論の結びとしている。「戦争体験の継承は多様であり、唯一反戦平和に接続されるのではない。戦争体験の継承と現代社会の在り様は合わせ鏡であり、それらとナショナリズムの関係は複雑で、難しい。同時に、日本社会の戦争責任論は、あの戦争を推進していった主体(軍部)への責任追及から、アジア諸国への加害者としての自らへの戦争責任を問い、そして植民地責任を含む議論へと展開していった。戦後日本社会が歩んできたこれらの思想的経緯を踏まえ、戦争責任問題を継承して反戦平和への想いを新たにしつつも、植民地責任をいま現在の問題として向かい合うことが、<ポスト戦争体験の時代>を生きる私たちの課題であることを確認し、本論の結びとしたい」。

 終章「「戦争体験」、トラウマ、そして、平和博物館の「亡霊」」(今野日出晴)では、これまでの議論を踏まえて、「本書の指し示す、いくつかの方向性と可能性について考え」、「おわりに-歴史実践という試み」で「見えないものに眼を懲らす」「<トラウマという歴史実践>」を論じ、つぎのように結んでいる。「死者を含めた他者の傷みや苦しみを深く想起し、かけがえのない戦争経験として、自分自身の身体を通して共有していくことができれば、それは、人権と呼ばれるものの根源に触れるだけではなく、<ポスト戦争体験の時代>において、国境をこえても成り立ちうる人権とは何か、新たな社会的・歴史的コンテクストを創り出すことにつながるかもしれない。そして、それは、二一世紀を生きる私たちにとって、<トラウマという歴史実践>を経験していくことなのだ。私たちは、大きな地平をもった新たな経験の入り口に立っている」。

 日本でいう「戦争体験」とは、第二次世界大戦アジア戦線や太平洋戦争、「大東亜戦争」でのことをさす。ところが、東南アジアを含む東アジアの人びとに「戦争体験」のことを訊けば、中国では国共内戦、南北朝鮮では朝鮮戦争、インドシナではインドシナ戦争、そのほかにもそれぞれの国ぐにで内戦や近隣諸国との戦争をしており、日本でいう「戦争体験」とは違う意味で語られることがある。トラウマとの関係でいえば、日本では1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災や各地でおこった地震での経験を思い起こす人びとがいる。第二次世界大戦に限定することなく、広く「戦争体験」をとらえることによって、それぞれの人にとっての「継承」の意味が明らかになってくるだろう。