山室信一『モダン語の世界へ-流行語で探る近現代』岩波新書、2021年4月20日、329+37頁、1040円+税、ISBN978-4-00-431875-0
おもしろい本である。日常生活で人びとを高揚させる流行語を扱っているのだから、書いている者も高揚する。さらに、新しい発見がつぎつぎに出てくるとなれば、書いている者のテンションはあがりっぱなしである。だが、ハッと気づけば、確証のない諸説紛々で収拾がつかなくなる。そのうえ、「思詞学」なるものをめざしているのだから、おもしろがってばかりはいられない。岩波書店の月刊誌『図書』に連載していたときとは違い、1冊の本としての「バランス」を考え、書きたい欲望を抑えて「圧縮」すると文意が通らなくなる。そんな著者、山室信一の戸惑いが見え隠れする。それも含めて、「おもしろい本」である。
「はじめに-ようこそ、モダン語の世界へ」の冒頭から、モダン語の連続で、ゴチックになっているものだけを拾い読みしても、知っている語にわくわくし、知らない語に興味津々になる。本書のテーマは、「日常の衣食住や娯楽などの生活場面で使われる言葉がいかに世界的つながりの中で飛び交い、しゃれや語呂合わせ、こじつけや転借・転訛などを伴って言語文化として広がっていったのか、その時代的な意義とは何なのかを訪ね歩くこと」である。
つづけて、著者はつぎのように考えていきたいと述べている。「私たちがあまり強く意識することもなく使っているモダンとは、いったいどのような事態をさすのかという問題である。近代と訳されるモダン、現代と訳されるモダン-これら「二つのモダン」は、どこが、どう違うのか。モダンとは、何からの歴史的段階づけのための時間区分なのか、それともある特徴的事象を指し示すものなのか」。
そして、「日本における「モダン語の時代」をおおよそ一九一〇年から一九三九年までの期間、ほぼ三〇年という時間の幅で考えてみたい」という。「この三〇年という時間の幅の中に、日露戦争と第一次世界大戦の「二つの戦後」があった。それはまた第一次世界大戦と日中戦争・第二次世界大戦の「二つの戦前」でもあった」。
さらに、著者は、「気づいていなかった。気づこうともしていなかった」ことを、つぎのように述べて、本書の課題としている。「モダンやモダン語を本当に考えようとすれば、その問題意識にふさわしい新しい定義が必要だったことを。そしてモダン語に限らず生活世界の言葉こそが「生きること、楽しむこと、そして歳をとること」についての気づきを与える契機となり、心意を他の人々に時空を越えて伝える手だてとしてあったことを」。
本書は、はじめに、全7章、おわりに、あとがき、などからなる。巻末に、「モダン語辞典一覧」「モダン・ガール小辞典」がある。本書の構成の説明はなく、各章の要約もない。以下の各章の表題を並べて見ても、よくわからない:「第1章 モダン、そしてモダン語とは?」「第2章 百花繚乱-モダン語のパノラマ」「第3章 行き交う言葉と変転する文化」「第4章 モダンの波頭を切るガール」「第5章 モダンを超え、尖端へ、その先へ」「第6章 エロとグロとその後にくるもの」「第7章 アジア、ローカル、アメリカとの往還」。どこから読んでもいいというのか。
第1章は、「本章では、モダンやモダン語について定義していくことから始めたい」という文章ではじまる。はたして、著者が「事典」の項目で、それらの定義を簡潔に書くとどうなるのだろうか。
本書で著者は「モダン語を取りあげながら、近代と現代という「二つのモダン」や「二つの戦後と戦前」などについても考え」、「問題にするのは、世界と時代が激変した中で起きていた日本人の言語生活を考える中で浮かび上がってきた「思詞学」という見方を検証できればと思うからである」と、学問的意義づけをしている。
この「思詞」「思詞学」について、著者は「おわりに-終わりなき「始まりの思詞学」」で、つぎのように説明している。まず、「柳田[国男]や大槻[文彦]の発想にも示唆を得て、私は社会で使われる日常語もすべて何らかの思想を含んだ民間文芸の言葉という意味で、「思詞」と呼んでみたい」という。つぎに、「その「思詞」を対象とする「思詞学」に固有の方法論とはいかなるものであり、それをどのように提示して共有したら良いのだろうか?」と自問して、つぎのように答えている。「方法論がないのが思詞学の方法論なのである。方法論がないから、あくまでも個人の趣味嗜好によって進める他ないし、個人の言語体験や記憶をそこに加えることも必要だと思っている」。「要するに、思詞学とは「浮遊する言葉を掴み取って、並べて、読んで、考えて、自分なりに関連づけて、いつでも連繋して引き出せるようにしておく」-ただ、それだけの作業をさす」。
「おわりに」には、著者が「ここまで本書を記してきて、じわじわと高まってきた不安と疑念」が、つぎのように書かれている。「何よりも、言葉を扱うことによって、それが抜きがたくもつ反対者や異論を圧殺する暴力性と権力性に、本書も不知不識のうちに加担し共犯者になってしまっているのではないかという懸念である」。「いかなる言葉も両義性をもつとはいえ、モダン・ガールはじめとする女性についての多種多様な呼称をはじめ、階級やエロ・グロ・ナンセンスやメリケン・ジャップやアメションなどに関連するモダン語のほとんどが、何らかの偏見や冷笑を含んだ言葉として使われたことは否定できない」。「特に、本書で基本的な史料としたモダン語辞典などは、小型辞典のもつ宿命として短文でまとめなければならないため、どうしても一面的な記述になりやすいという制約をもつ。一面を切り取ることは、その特徴を際立たせることはできるが、それは同時に他の側面を削ぎ落とすことになる。そこではユーモアは悪罵に、断定は偏見に、分類は排斥に、一瞬にして転じうる」。「言葉は、円滑なコミュニケーションを行って社会生活を進めるために不可欠なメディアではあるが、そのまま反対論や異論を封殺するための切っ先鋭い刃や凶器と化す」。
その不安や疑念は、当然である。われわれがいま使っていることばは、本書で論じてきたように、歴史的変遷を経て、そのままのものもあれば、原形を留めない使われ方をしているものもある。だからわれわれ研究者は、その時代、その社会で使われていたことばによって書かれた原史料を重視する。だが、すべてのことばをその起源に遡って検証することはできないし、本書で明らかになったように多くのことばはその起源がわからない。著者は、そのことがじわじわとわかってきたため、100年前のことばを調べた結果の自分のことばが100年後にどう使われるか「不安と疑念」を抱いたのである。
本書にも登場した吉川エイスケ(1906-40)とあぐり(1907-2015)夫妻をモデルにしたNHK連続テレビ小説「あぐり」(1997年)が、いま(2021年3-9月)再放送されている。美容室のチエーン店を展開するまでモダンを謳歌したヒロインと違い、夫のエイスケはダダイズム流行のなかでなかなか書けずに苦悩し、息子の淳之介のような文学的活躍はできなかった。もし、このドラマを、「浮遊する言葉を掴み取って、並べて、読んで、考えて、自分なりに関連づけて、いつでも連繋して引き出せるようにしておく」著者が監修していたら、どうなっていたか。妄想である。
評者、早瀬晋三の最近の編著書
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~)全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
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